山形藩数多くの譜代大名が治める
最上家の家紋「引両」
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山形藩は、奥州の覇権を伊達政宗と争った最上義光を開祖とする藩です。
しかし、最上家は最上義光の死後数々の騒動を起こして改易され、その後は鳥居氏をはじめ数々の譜代大名や親藩が藩を治めました。そんな山形藩の歴史を紐解いていきましょう。
開祖最上家時代
山形藩の開祖は南北朝時代から出羽の国を支配していた最上家の11代目、最上義光です。最上義光は奥州の覇者伊達政宗の叔父にあたり、伊達家と最上家は奥州の覇権をめぐって激しく争った時代もありました。最上義光は奥州を舞台にしたり伊達政宗が主人公だったりした大河ドラマや次代小説、映画には必ず登場する武将であり、今でも根強い人気があります。
最上義光は徳川家康と年が近く、気が合ったという記録が残っています。慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の戦いでは東軍に味方し、北の関ヶ原と呼ばれた慶長出羽合戦で勝利し、57万石を安堵され東北の大大名となって山形藩を初代藩主となります。
最上義光は慶長16年(1611年)から翌年にかけて庄内・由利において検地を実施したり山形城の城郭を広げたりして大大名の格式を整えると同時に、藩の財政の基盤を固めました。
東北最大の城郭は、この時に造られたと考えられます。このほか、城下町や街道を整備し、水運を発展させて山形を東北最大の都市にすべく尽力しました。
しかし、最上家は一枚岩でなく豊臣氏を慕う「反主流派」と徳川家に忠誠を誓う「主流派」が激しく反目していました。そして、最上義光の長男最上義康は反主流派に慕われていたのですが、彼が若くして暗殺されてしまいます。そのため、最上義光の死後、次男に当たる最上家親が2代目藩主になりますが、反主流派が反旗を翻して軍事行動を起こします。最上家親は反旗を翻した反主流派を静粛しますが、その際、反主流派に担がれた自分の弟、清水義親を処刑しました。
その後、最上家親が急死したことにより、実子の最上義俊が13歳で3代目藩主となります。わずか13歳の藩主は幕府から激しい内政干渉を受けたほか、反主流派からも激しい反発を招きました。そのため、最上義俊は父、最上家親は毒殺されたと幕府に訴えます。これにより、最上家と家臣団の反目は一層強くなり、幕府は最上家親は自然死と判断したうえで、最上家は武家諸法度に違反したとして改易になってしまいました。これが、今に伝わる「最上騒動」の顛末です。最上義俊は近江大森藩に1万石に石高を減らされた上で移封となりました。
最上家以降の山形藩
最上家の改易で、山形藩は出羽新庄藩、上山藩、本荘藩、鶴岡藩などに分割され、20万~24万石あたりまで石高が落ち込みます。その後、磐城平藩12万石から加増移封された鳥居忠政が山形藩に移封されました。鳥居家は、東国の押さえに鳥居家に山形藩を任せたと推測されています。鳥居家は、鳥居忠政、鳥居忠恒の2代にわたって山形藩を治めますが、鳥居忠恒は病弱のために子孫を残せず33歳の若さで死亡、末期養子の禁に触れて鳥居家は改易されてしまいました。
その後、山形藩には徳川家光の異母弟である保科正之が移封されます。保科正之は鳥居家の家臣たちも面談の上で召し抱えたうえ、奉行制度を整備して民政を整えます。さらに、家臣の掟として「家中仕置」18条と「道中法度」13条を制定するなど名君ぶりを発揮しますが、7年後に3万石加増の23万石で陸奥会津藩へ移封となりました。
その後、山形藩は松平直基、松平忠弘と短期間で藩主となる大名家が交代した後、奥平昌能が9万石にまで石高が減少した山形藩に移封されます。奥平昌能は父親の死がきっかけで発生した「宇都宮興禅寺刃傷事件」により、実質左遷されて山形藩にやってきました。この奥平昌能から、山形藩は騒動を起こした譜代大名の左遷の地となる慣習ができたといわれています。山形藩は度重なる石高減少で家臣を抱えきれず、山形城の維持で財政はひっ迫し、散々な有様でした。昌能の死後、彼の甥にあたる昌章がわずか5歳で後を継ぎますが、家臣団にも優秀な人材がおらず、藩は大いに荒廃し、奥平家は再び移封されました。
その後、山形藩は堀田家・越前松平家・奥田松平家の3つの家から7人の藩主が出ますが、どの藩主も短期間で交代し、藩は困窮する一方でした。そして、大給松平家の松平乗佑が移封にされてきたときには、石高はわずか6万石になってしあいます。
松平乗佑は父が、徳川吉宗の側近をつとまた松平乗邑ですが、彼は9代将軍徳川家重よりもその弟である徳川宗武を将軍推していたため、吉宗が隠居すると父と共に山形藩に左遷されてしまいました。そんな状況で藩政に身が入るわけはなく、実際に山形に入ったのはわずか1年程度、城は荒廃して城下は打ちこわしが発生するなどして藩政は混乱しました。
その後、山形藩は3年間の天領をへて秋元家が藩主となります。秋元家は最も山形藩を長く統治した家で、4代の藩主を輩出しました。どの藩主を目立った活躍こそしませんでしたが78年の長きにわたって山形藩を治めました。
最後の藩主となった水野家は、天保の改革に失敗した水野忠邦の長男と孫にあたります。改革に失敗した責任をとった左遷ですが、2人は最後まで無難に藩を治めて明治維新を迎えました。
まとめ
山形藩は初代最上家が治めたときは東北最大の都市でしたが、徐々に幕府で失脚した譜代大名の左遷先になっていきました。したがって、藩政改革も積極的に行われず藩政は苦しいままでした。しかし、山形城跡は現在市民の憩いの場になっています。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。