諏訪藩(2/2)神官の末裔が治める
諏訪家の家紋「諏訪梶葉」
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6代藩主諏訪忠厚の時代、農政改革をきっかけに高島城二の丸に住む諏訪家家老の諏訪図書・大助父子と、三の丸に居を構える同じく家老の千野兵庫が対立し、どちらが政権を握るのか、家臣団をまきこんで藩を二分する騒動になります。この騒動は紆余曲折合って一端は収まったかに見えましたが、6代藩主諏訪忠厚の跡取りを巡って再び争いが再燃します。
この騒動は二の丸騒動と呼ばれ、一時期は諏訪家改易の危機にまで陥りますが、最終的に千野兵庫が政治的に勝利し、二の丸派と呼ばれた家臣は斬首や切腹させられました。この騒動により、6代藩主諏訪忠厚は暗愚な藩主となって歴史に名を残す事になりました。
7代藩主諏訪忠粛は、父諏訪忠厚の強制隠居によって藩主になりましたが、坂本養川を登用して、検地や新田開発、税制改革、鋸製造業を奨励し、一応の成功を収めます。また、藩校を起して藩士子弟の養育や藩医を長崎に留学させるなど、学問を推奨しました。
8代藩主諏訪忠恕は父の政策を引き継ぎ、養蚕の奨励など産業を発展させようと試みましたが、連年の凶作や江戸藩邸の焼失により藩財政は悪化し、強訴などが藩内で起ります。それでも、大きな一揆には発展しませんでした。
9代目藩主諏訪忠誠は、老中として幕府で活躍した人物です。時代は幕末を迎え、武田耕雲斎率いる水戸天狗党が京都を目指し、諏訪藩領内の和田峠を突破しようとするなどあちこちで争いの火があがっていました。
そのような中、12代目将軍徳川家茂が長州征伐に出兵しようとしており、忠誠は老中としてこれを押しとどめ、老中を罷免されてしまいます。その後、戊辰戦争では元藩主として新政府方に加わり、幕府方と交戦しています。
一時的に甥の諏訪忠礼が家督を継いでいますが、彼は26才の若さで夭折していますので、諏訪忠誠が最後の藩主といっていいでしょう。
なお、明治以降諏訪忠誠は、諏訪大社や東京の芝大神の宮司を歴任しています。
諏訪藩まとめ
諏訪の地は中世まで神職でもあった諏訪氏が治め、一時期別の家の手に渡っていますが、最終的に江戸時代初期に諏訪家に再び戻ってきました。なお、現在も諏訪家は存続しており、現当主は15代目、高島城名誉館長も勤めておられます。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。