白河藩(2/2)松平定信も城主を務めた
松平家の家紋「梅鉢」
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17歳の頃に白河藩第2代藩主、松平定邦の養子になります。その後、天明3年(1783年)から天明7年(1787年)にかけて天明の大飢饉が発生しました。天明の大飢饉は、東北地方の被害が甚大だった飢饉ですが、松平定信は被害を最小限に食い止めるように分領の越後から白河へ米を輸送させ、同時に会津藩に米を売ってもらうように談判します。この松平定信の裁量により、白河藩の被害は拡大せずに済みました。
この功績や藩主就任後の白河藩の財政建て直しの実績が認められ、松平定信は田沼意次が失脚した後の天明7年(1787年)、11代目将軍徳川家斉の元で、老中に任ぜられます。
老中になった松平定信は寛政の改革に着手します。寛政の改革といえば、「白河の清きに魚も棲みかねて もとの濁りの田沼恋しき」という狂歌が有名ですが、これは、松平定信が白河藩の藩主であったことに由来します。
寛政の改革は結局6年ほどでとん挫し、定信は72歳でなくなりました。
跡目は次男の松平定永が継ぎますが、早々に桑名へ移封されました。
久松松平家が去った後、明治まで白河藩の藩主を務めたのが安倍家です。中でも、有名なのが、7代目の阿部正外です。時代は14代将軍徳川家茂の時代。阿部正外は勝海舟とも面会し、幕府へ勝海舟の政治思想の危険性を報告、彼が罷免されたきっかけを作ったと言われる人物です。その一方で、京都の攘夷派公家・浪士らの牽制や、朝廷との交渉役も務めました。彼は一貫して徳川家茂のサポート役を勤め、奥羽越列藩同盟軍を結成し、戊辰戦争では新政府軍と戦いましたが、大敗して白河小峰城が焼失します。
本人は、保原の藩分領に逃走して降伏し、明治20年まで生存します。
なお、安部正外の跡を実子の阿部正静継いでいますが、特に目立った働きはなく父より先んじて明治11年に28歳で亡くなりました。そのため、実質的には正外が最後の藩主といえます。
白河藩まとめ
白河藩は治める家がめまぐるしく代わり、初代から財政難で苦しみ、一揆も多発した藩です。松平定信など有名な藩主もいますが、特に大きな功績を残した藩主はいません。そのため、会津藩など東北の他の藩と比べると、「殿様」の印象が薄い藩といえます。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。