福井藩(2/2)越前松平家が明治まで治め続ける
結城家の家紋「右三つ巴」
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8代目藩主松平吉邦は養父昌親の意志をついで財政再建に力を入れます。その政策は8代目将軍徳川吉宗の政策と一致したため、徳川吉宗から大いに信頼を得て、越前にある天領10万石を福井藩預かりにしてもらえます。藩主になって10年後、41歳で死去しました。
9代目藩主松平宗昌は松岡藩初代藩主・松平昌勝の三男であり、40半ばで藩主となりますが50歳で死去、10代目藩主松平宗矩は善政を敷いて藩の財政を一時期建て直すことにも成功しましたが、残念ですが35歳の若さで亡くなりました。
11代目藩主松平重昌は10歳未満で藩主となり、16歳で夭折します。12代目藩主松平重富の代にはさらに財政が悪化し、一揆が多発します。そこから16代目藩主松平春嶽まで、3代の藩主が夭折、早世しました。
16代目藩主松平春嶽は、第12代将軍・徳川家慶の従弟にあたり幕末明治期の重要な史料である『逸事史補』の著者としても知られています。わずか11歳で藩主となった後、天保10年(1839年)から、全藩士の俸禄を3年間半減させたうえ、藩主自身の出費5年削減を行って大胆な財政の立て直しを実行、これに一定の成功を収めました。
その一方で、徳川斉昭や薩摩藩主の島津斉彬、老中首座の阿部正弘ら諸大名とも親交を深め、嘉永6年(1853年)、浦賀にペリーが来航して通称を求めると攘夷・海防強化を主張しています。しかしその後開国派に転じ、積極開国論を説いた建白書を幕府に提出しました。
第13代将軍・徳川家定の継嗣問題にもかかわりを持ち、紀州藩主の徳川慶福を次の将軍へと推薦する南紀派と対立し、一橋慶喜を推薦しています。このあたりの経緯は幕末を舞台にしたドラマや小説では詳しく取り上げられることもよくあるので、ご存じの方も多いでしょう。その後、松平春嶽は大老井伊直弼と意見が合わず安政の大獄で謹慎処分を受けましたが、桜田門外の変で井伊直弼が暗殺されると幕政に復帰、文久2(1862)年政事総裁職に就任して、幕政改革にまい進しました。また、公武合体派として幕府と朝廷の間の調整役を務め、戊辰戦争時は徳川家擁護に尽力しています。明治新政府から見れば敵方の人物でしたが、明治維新後も議定、民部卿、大蔵卿、大学別当兼侍読等を歴任しました。
なお、松平春嶽が安政の大獄で蟄居したときに最後の藩主松平茂昭が跡目を継ぎ、最後の藩主となっていますが、実権はなく、ほぼ傀儡でありました。
福井藩まとめ
福井藩は徳川家の親藩として越前松平家が代々納めた藩ですが、天災が多く、藩の内情は大変苦しく、藩主は代々苦労していました16代目藩主松平春嶽が歴代藩主の中でもっとも有名であり、彼の活躍があったからこそ大政奉還がスムーズに進んだという説もあります。
現在も越前松平家は現存しており、現当主は20代目を数えます。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。