福井藩(1/2)越前松平家が明治まで治め続ける
結城家の家紋「右三つ巴」
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福井藩は現在の福井県嶺北中心部を治めた藩です。藩庁は福井城で、開藩から明治維新まで徳川家康の次男、結城秀康を祖とする越前松平家が治めました。そんな福井藩の歴史を紐解いていきましょう。
福井藩開藩から3代藩主光永まで
福井藩を含む越前は、関ヶ原の戦いで最も戦功を立てた徳川家康の次男、結城秀康に与えられます。
この時、結城秀康には越前全土が与えられて石高は67万石でした。
結城秀康は柴田勝家が築城し、焼失した北ノ庄城の跡地に父、徳川家康の協力も得て福井城を築城します。
また、慶長9年(1604年)に松平姓を許されて越前松平家を興します。
しかし、慶長11年(1609年)に34歳の若さで死去しました。
2代目藩主となったのは嫡男の松平忠直ですが、慶長17年(1612年)に、重臣たちの確執原因とする越前騒動が勃発します。越前騒動は重臣同士の武力衝突まで発生し、松平忠直だけでは解決できず、徳川家康と2代将軍徳川秀忠が直々に決済を行っています。
その後、松平直忠は大坂夏の陣で真田繁信のものと伝わる首級をあげ、大阪城に攻め入るなどの戦功をあげますが、それに対する恩賞に不満をもって乱行が目立つようになります。そのため、2代将軍徳川秀忠が元和9年(1623年)、に松平直忠に隠居を命じ、のちに大分県へ配流になりました。
松平忠直の子ども、主松平光長は、幕府では正式な藩主として認められていません。2代藩主松平忠直の嫡男でありましたが、いったんは認められた相続を直前になって幕府に保護され、福井藩から分けられた高田藩の藩主となります。しかし、嫡男を亡くした後の跡目相続から端を発する越後騒動が勃発し、こちらも4代将軍徳川綱吉が直々に決着をつけています。
その後、松平光長は配流になりました。
なお、のちに諸侯に復帰して制限の多い生活ではありましたが93歳まで長生きしました。
3代目藩主松平忠昌から幕末まで
3代目藩主松平忠昌は、初代藩主結城秀康の次男であり松平忠直の同母弟です。
武勇に優れた血気盛んな性格だったと伝わっており、大坂冬の陣の際は徳川秀忠に随行し、兄、松平忠直と共に出陣、50以上の首級を上げたという伝説が残っています。
松平忠昌がそれまで北之庄と呼ばれていた越前を福井と改名しました。
元和9年(1623年)2代目藩主松平忠直が配流になると幕府の命により越前のうち越前北荘(福井)50万石の藩主になるように命じました。これにより、福井藩は67万石から50万石に石高が減ります。
藩主となった松平忠昌は新田開発、交通網の整備にも力を入れ、何度も飢饉や災害に悩まされるも、家臣団と併せて見事にそれらを乗り切りました。
4代目藩主松平光通は父松平忠昌の死去により10歳で藩主となります。その際、父の遺言により弟たちに福井藩から松岡藩や吉江藩などを分割し、分け与えました。同時に、朱子学者の伊藤坦庵を京都より招き、儒学を中心とした文教を奨励して学問・文化方面で藩を発展させようと努力します。しかし、この時期福井藩は何度も天災に見舞われて藩政は悪化します。寛文元年(1661年)、福井藩は幕府の許可を得て藩札を発行しましたが、これが史上初の藩札と言われています、また寛文9年(1670年)福井城下に大火が発生し、福井城の天守閣が焼失、以後、天守閣が再興されることはありませんでした。
さらに、松平光通は正妻の自殺、嫡男の早世、親戚からの重圧などの心労がたたり、ついに弟の庶弟の松平昌親に家督を譲るように遺言し、自殺します。
このことが原因で、福井藩はさらに石高を減らすことになります。
6代目藩主松平綱昌は藩主について早々奇行が目立つようになり、飢饉の対処にも失敗したため、貞享3年(1686年)に幕命により蟄居を申し付けられ、39歳で亡くなりました。
5代目、7代目藩主松平昌親は、遺言により藩主になるように申し付けられていましたが、遺言の実行を巡って家が3分する大騒動が起き、なんとか藩主についたものの藩内の不満は収まらず、藩主について2年後に一度藩主の座から退きます。しかし、6代目藩主松平綱昌が発狂したため、再び7代目藩主となりました。このとき、名前を松平吉品と改めています。再度藩主になった松平昌親は、藩の経済を立て直そうとあらゆる手段を講じますが結局うまくいかず、ついに「御国反乱程之困窮」と言われるほど藩の経済は悪化してしまいました。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。