福岡藩(2/2)黒田家が治める
黒田家の家紋「黒田藤」
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藩主である間に享保の大飢饉にも襲われましたが、窮民対策を行なって被害を最小限に抑えます。彼の治世は50年物長きにわたりましたが、晩年は嫡男、三男が相次いでなくなり、後継者がいなくなり、10代将軍徳川家治の従兄弟にあたる隼之助を養子に迎えました。ここで、黒田家の血統は途絶えたのです。
しかし、養子となった黒田治之は7代目藩主となって間もなく30歳で早世、末期養子とした8代目藩主黒田治高も29歳の若さで病没、さらに9代目藩主黒田斉隆にいたっては19歳でなくなってしまいました。
10代目藩主黒田斉清は、数代ぶりに50代まで長生きしました。蘭学に傾倒した蘭癖大名として有名な人物で、オランダ商館の医師であり、後にシーボルト事件を起したフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトより、薬学から動植物・世界地理・文化風習まで広く対話した、という記録が残っています。また、歌舞伎や人形浄瑠璃などの芸能を奨励し、富くじを行なって財政再建を試みましたがうまくいきませんでした。著書に『鵞経(がきょう)』、『鴨経(おうきょう)』、『駿遠信濃卉葉鑑』などを残しており、鳥好きでもあったことがわかります。
11代目藩主黒田長溥は、薩摩藩11代目藩主の島津斉彬と親戚関係にあり、大変仲が良かったことでも知られています。また、養父黒田斉清同様蘭癖大名であり、オランダ人指導の下、蒸気機関の製作にも取り組んだり、再来日した医師、シーボルトから解剖学の講義を受けたりしました。このほか、藩校修猷館を再興させたことでも知られています。
黒田長薄が藩主であった嘉永5年(1852年)、ペリーが来航し、その情報を知った長薄は徳川幕府に対して建白書を送り、海軍の設立や開国を進言したといわれています。この建白書は結局採用されることはありませんでしたが、黒田長薄の聡明さをしめす逸話として有名です。
また、彼は慶応元年(1865年)に乙紐の変と呼ばれる弾圧を行ない、過激な勤王志士を一掃しました。その後、薩摩藩と長州藩、そして幕府の間に立って仲介を行なうなど、明治維新の隠れた立役者として、優れた力を発揮しています。なお、彼の後を12代目藩主黒田長知が継いでいますが、家督を譲ったのは明治2年であり、実質上黒田長薄が最後の藩主といわれています。
黒田長知は、岩倉使節団の一員として渡英し、ハーバード大学を卒業し、帰国後は東京に小学校を作るなど日本の教育に多いに貢献しました。
福岡藩まとめ
福岡藩は、江戸時代を通して黒田家が治め続けました。11代目黒田長薄は名君として知られており、表だってはいないものの、大政奉還をスムーズにすすめた影の立役者でもあります。なお、子孫には黒田家14代目当主にして日本鳥学会会長を務めた黒田長礼氏がいます。
そして、不動産会社の如水興産は黒田長礼氏の孫にあたる黒田長高氏が設立した会社です。氏は、16代目黒田家当主を務めており、ご本人は東京在住ですが、福岡県にも足繁く訪れ、地域の方と交流をしています。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。