忍藩(2/2)江戸にほど近く交通の要所

忍藩

松平家の家紋「丸に三つ葵」

記事カテゴリ
藩史
藩名
忍藩(1590年〜1871年)
所属
埼玉県
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忍城

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平和な時代にそれだけの石高増加は珍しく、阿部家がいかに幕府で重要な立場にいたかわかります。実際、5代藩主阿部正允まですべての藩主が老中になっています。

6代目阿部正敏は、田沼億次が権勢を握っていたためか老中にはなれませんでしたが、大阪譜代まで出世しています。

その後、9代目の阿部正権まで安部家の当主は幕府の要職を歴任し、藩政は家臣団に任されました。忍藩は江戸に近く陸・河川の交通の要所でありましたが、度重なる飢饉、富士山の噴火、さらに幕府より命じられた普請などで、藩政は逼迫していました。

松平家の時代

阿部家9代目阿部正権がわずか3歳で病没したために、伊勢桑名藩より松平忠堯が移封されてきました。その後、この松平家が幕末まで5代にわたって藩主を務めます。

3代目藩主松平忠国の時代、鳥羽・伏見の戦いの後で藩が新政府に従うか幕府軍に恭順するかでまっぷたつに割れそうになりましたが、松平忠国が病身を押して藩をまとめ、新政府軍に恭順の意思を示しました。

最後の藩主松平忠敬は廃藩置県後、自費でイギリス留学までした才能ある人物ですが、旧藩士が不祥事を起すなど周囲に恵まれず、最終的に中学校の教師となって生涯を終えました。その子、松平忠寿は明治から昭和57年まで生存し、100歳の長寿を全うしました。なお、松平忠寿の孫がまだご存命です。

忍藩まとめ

忍藩は江戸に近かったこともあり、親藩や譜代など幕府に近い大名が藩主を務めました。そのため、藩主が幕府の要職を務めるのが半ば習わしとなっており、藩で何か政策を行ったという記録はほとんど残っていません。最後に藩主となった松平家は、旧松平子爵家として、現在も存続しており当代の当主で16代目を数えるそうです。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。
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