江戸幕府(1/2)最後の武家政権
徳川家の家紋「三つ葵」
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江戸幕府は慶長8年(1603年)に徳川家康が征夷大将軍に任ぜられて江戸に開いた武家政権です。鎌倉時代から始まった武家政権の最後であり、徳川家が将軍職を世襲したことから徳川幕府ともいわれています。また、開闢から終了までの約250年間小規模な内乱はあれ、大規模な争いが幕末をのぞいて発生しなかった平和な時代でもありました。そんな江戸幕府の歴史を紐解いていきましょう。
江戸幕府開闢から5代将軍徳川家綱の時代まで
慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の合戦に勝利した徳川家康は、慶長8年(1603年)に征夷大将軍に就任して徳川幕府を開きました。
その2年後の慶長10年(1605年)、家康は将軍職を徳川の世襲とする体制を固めるため、徳川秀忠に将軍職を譲り、自分は駿府城に移ります。しかし、実験を完全に手放さずに朝廷・寺社・西国大名・外交を担当しました。
慶長19年(1614年)にはいまだ脅威であり続けた豊臣を滅ぼすべく大阪冬の陣、夏の陣を起こし、豊臣秀頼とその母親である淀殿を自害に追い込みます。
同じ年、武家諸法度・禁中並公家諸法度を制定して武家政治の基礎を固めました。
そして元和2年(1616年)~元和5年(1619年)にかけて、九男徳川義直に尾張藩、十男徳川頼宣に紀伊藩、末男徳川頼房に水戸藩を開かせて徳川御三家を作ります。
こうして将軍が長を務める幕府と将軍と主従関係を結んだ大名が長を務める藩で構成される幕藩体制の基礎を築いた徳川家康は、御三家を創設している最中、元和3年(1617年)に数え年75歳で死去しました。
2代目将軍の徳川秀忠は、元和3年(1617年)に中国商船以外の外国船寄港を平戸・長崎に限定し、鎖国への道を歩み始めます。
また、元和8年(1622年)には諸大名へ妻子を江戸に住まわすこと、また大身家臣の人質も江戸に送ることを命じるなど、父家康の志を受け継いで幕府の体制強化に努めました。
秀忠は元和9年(1623年)に家督を次男徳川家光に譲って隠居しますがやはり実権は手放さず、大御所政治を行いました。
3代目将軍徳川家光は寛永12年(1635年)に武家諸法度の改訂を行い、大名に参勤交代を義務づけます。これにより東海道など五街道をはじめとして全国の街道がの整備が進みました。
また、寛永10年(1633年)~寛永18年(1641年)にかけて鎖国を完成させます。この間に江戸時代最大の内乱と呼ばれる「島原の乱」が発生しました。ちなみに、この乱の責任を取らされ、島原藩2代藩主松倉勝家が斬首されています。
徳川家康~家光までの政治は「武断政治」であり、多くの大名が改易や切腹を命じられています。しかし、家光の代を最後に大名の切腹や斬首、さらに50万石以上の大名の改易は行われなくなりました。
寛永19年(1642年)からは寛永の大飢饉が発生し、全国の藩が大打撃を受けます。この基金をきっかけに農民統制として田畑永代売買禁止令を発布します。
徳川家光は慶安3年(1650年)に病で倒れ、諸行事を4代将軍家綱に代行させますが、隠居はせず翌年没しました。
4代目将軍徳川家綱は末期養子の禁を緩和し、殉死を禁ずるなど父が行った武断政治から文治政治への移行を行いました。
また、宗門改の徹底と全国への宗門人別改帳の作成命令や諸国巡見使の派遣、諸国山川掟の制定、河村瑞賢に命じて東廻海運・西廻海運を開拓させるなど全国的な流通・経済の発展を促す政策を行っています。
その一方で、家綱には実子がおらず、末弟の館林藩主松平綱吉を養子に迎えて跡を継がせています。徳川綱吉は延宝8年(1680年)に40歳の若さで病死します。
5代目将軍徳川綱吉は将軍職についた直後は天和の治と呼ばれる善政を敷きますが、貞享元年(1684年)に堀田正俊が若年寄・稲葉正休に刺殺されると以降大老を置かず、老中ではなく側用人の柳沢吉保らを徴用するようになります。
現在でも有名な悪法「生類憐みの令を」などが発令されたのも、それ以降です。
また、勘定奉行の荻原重秀の提案で貨幣の改鋳も行いましたが、うまくいかずかえって経済が混乱してしまいます。徳川綱吉にもまた子どもができず、家光の三男の子どもである徳川家宣が6代目を継ぎました。
6代将軍徳川家宣~10代将軍徳川家治まで
6代将軍徳川家宣は48歳で将軍職に就くと、宝永通宝の流通と、生類憐れみの令の一部を順次廃止していきます。
また、5代将軍の側用人を勤めていた柳沢吉保の辞任により側用人に間部詮房、学者として新井白石らを登用し、綱吉時代から始まった文治政治を推し進めていきました。
外交では李氏朝鮮や琉球と使節のやり取りを行い、新井白石による正徳金銀の発行などの財政改革も試みますが、将軍についてわずか3年で死去します。
徳川家宣も実子に恵まれず、後を継いだ7代将軍徳川家継はわずか3歳でした。
その徳川家継は3年後の数え年8歳(満6歳)で夭折します。
跡を継いで8代将軍になったのは、初代将軍家康の曾孫。4代将軍家綱、5代将軍綱吉のはとこにあたる徳川吉宗でした。徳川吉宗は江戸幕府の中興の祖として名高く、近年でも彼を主人公にした時代劇や大河ドラマが作られており、最も知名度の高い将軍といえます。
徳川吉宗は紀州藩主徳川光貞の末男(四男)であり、しかも母親の身分が低かったため、紀州藩主にもなれる可能性が低かった人物でした。それが、相次ぐ父と兄たちの病死によって紀州藩主となり、尾張藩徳川継友と争った末に将軍職に就きます。そこまでの過程も非常にドラマチックですので、興味がある方は調べてみても面白いでしょう。
徳川吉宗は、水野忠之を老中に任命して財政再建を始めます。定免法や上米令による幕府財政収入の安定化を図り、新田開発を推進しました。また、町火消の設置、大岡忠相の登用などに代表される享保の改革を行います。
彼自身も好奇心の強い性格でキリスト教関連以外の書物に限り洋書の輸入を解禁し、長崎に蘭学の流行をもたらしました。
しかし、武芸を強く推奨して質素倹約を推奨したため、文化や経済の停滞を招き地方では百姓一揆が頻発するマイナス面もありました。
徳川吉宗は2代将軍秀忠以来の大御所となり、9代将軍徳川家重に家督を譲った後も実験を握り続け、寛延4年(1751年)に66歳で死去しています。
9代将軍徳川家重は障害により言語が不明瞭で、将軍になってからも大奥にこもりがちだったと言われています。父である8代将軍徳川吉宗の死後は勘定吟味役を充実させ、現在の会計検査院に近い制度の確立、幕府各部局の予算制度導入、宝暦の勝手造り令で酒造統制の規制緩和など、評価委に値する経済政策を行っています。
しかし、父吉宗が享保の改革の一環として増税を行い、その負担と飢饉による凶作から一揆が多発し、社会不安が増していきました。このほか御三卿体制が整ったのもこの時代です。
晩年の徳川家重はさらに言語が不明瞭となり、側用人の大岡忠光のみが将軍の言葉を聞き分けることができたため、彼が重く用いられました。そして、大岡忠光が亡くなると将軍職を退いて大御所となり、田沼意次の重用を家治に遺言して宝暦11年(1761年)に数え年51歳で死去します。
10代将軍徳川家治は田沼意次を側用人に重用し、老中・松平武元らと共に政治に励みましたが、次第に田沼意次にすべてを任せるようになり、本人は趣味の将棋などに没頭し、天明6年(1786年)に死去します。
なお、徳川家治の死後田沼意次即失脚しました。
11代将軍徳川家斉~最後の将軍徳川慶喜まで
徳川家斉は御三卿の一つ一橋家の生まれで、徳川家治の養子となった人物です。将軍に任命されたときは15歳の若さでした。そのため、陸奥白河藩主で名君の誉れ高かった松平定信が老中首座につき、彼の主導で寛政の改革が行われます。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。