掛川藩(2/2)13家が治める
太田家の家紋「桔梗」
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太田資俊は舘林藩から掛川藩に移封され、2代目藩主太田資愛は、幕府で、奏者番、寺社奉行、若年寄、京都所司代、老中を歴任するという、出世街道をひた走りました。
その分、掛川にはほとんど訪れることなく、墓所だけが三島にあります。
3代目の太田資順も奏者番となりますが47歳と若くして死去、4代藩主太田資言は、藩主になった翌年に29歳で亡くなってしまいました。
5代目藩主太田資始は、11代目将軍徳川家斉の側近として寺社奉行、京都所司代、大坂城代などを歴任し、天保5年(1834年)に老中となります。
老中となった後、同じく老中で天保の改革を実践した水野忠邦と激しく対立し、水戸藩の徳川斉昭を盾に、水野忠邦を解任しようと画策しました。
しかし、この画策は失敗に終わり太田資始は老中の任を解かれて隠居します。
その後、大老井伊直弼が太田資始を老中に再任するという、前例のない人事を行いましたが、1ヶ月で辞任し、その後は幕府の要職に就くことはありませんでした。
6代目藩主太田資功は、寺社奉行になったものの36歳で病没、最後の藩主太田資美は、新政府の命で現在の千葉県に当たる上総山辺郡内に移封されますが、藩知事を罷免される4年間に優れた手腕を発揮して藩を豊かにしました。
藩知事を辞任した後は東京に拠点を移し、東京仏学校(法政大学の前身の一つ)の設立に尽力するなど教育・芸術関連に貢献して生涯を終えました。
掛川藩まとめ
掛川藩は記録によると米作を中心として茶・木材・椎茸などが作られていたそうですが、生産量は少なく、藩政は苦しかったといわれています。
東海道の要所だったため、親藩や譜代など格の高い大名家が藩主を勤めましたが、そのほとんどが短期で国替えをされたり幕府の要職についたりして、藩の政治は国元の臣下たちに任されていたと推測されます。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。