駿府藩(1/2)幕府の直轄地

駿府藩

内藤家の家紋「内藤藤」

記事カテゴリ
藩史
藩名
駿府藩(1601年〜1871年)
所属
静岡県
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駿府城

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駿府藩は、徳川家譜代の家臣・内藤信成の駿府城入城により成立しました。
しかし、徳川家康が隠居して駿府城に入ったことにより、駿府藩は一度消滅します。
その後、紆余曲折を得て駿府藩は直轄地として代々城代が収めることとなりました。
今回は、直轄地の統治方法を含め、駿府藩の歴史を紐解いていきましょう。

徳川家康の十男が城主を務めるもすぐに断絶する

駿府藩は、慶長6年(1601年)に徳川家譜代の家臣・内藤信成が4万石で入封したことで、成立しました。
しかし、徳川秀忠に二代将軍の座を譲って隠居した徳川家康が駿府城に入城したことにより、駿府藩は幕府が治める地になり、一時的に廃藩となります。

慶長14年(1609年)徳川家康の十男・徳川頼宣が駿河・遠江二国および東三河50万石を与えられて駿府城に入ったことで、駿府藩は復活しました。

しかし、このとき徳川頼宣は満7歳と幼少だったため、政務は引き続き徳川家康が行なっています。
元和5年(1619年)、頼宣は紀伊国和歌山藩55万5000石へ転封され、紀伊徳川藩が開かれますが、それと入れ替わるように再び駿府藩は廃藩となりました。

その後寛永2年(1625年)三代将軍・徳川家光の弟・徳川忠長が駿河・遠江・甲斐などに55万石で封じられ、再び駿府藩が成立します。

24年間の間に二度の廃藩、復活というめまぐるしさでした。
しかし、徳川忠長は兄徳川家光と将軍位を争って破れた経緯から兄弟仲が大変悪く、数々の粗放な振る舞いも問題となっていました。

そしてついに、寛永7年(1630年)(一説によると寛永8年)に上野高崎藩に蟄居の身となり、寛永9年(1632年)に改易となります。

その翌年の寛永10年(1633年)に徳川忠長は自害し、駿府藩は3回目の廃藩となりました。
これ以降、駿府藩は二度と復活することはなく、明治まで旗本が城代を務める直轄地となったのです。

駿府藩の治世の仕組み

駿府藩は幕府の直轄地になってから、駿府城代を置き、東海道の要衝である当地の押えとしました。
駿府城代は老中支配であり、駿府に駐在して当城警護の総監・大手門の守衛・久能山代拝などを行なっていたと記録に残っています。

同じ城代には「大坂城代」がありますが、大坂城代が譜代大名から任じられたのに対し、駿府城代は1万石未満の旗本から任じられていました。

ちなみに、老中支配の中で駿府城代は最高の格式を持ち、御役知2000石を与えられ、伺候席(将軍に席巻する際の控えの間の席)は雁間詰だったということです。

慶安2年(1649年)には、駿府城代を輔ける副城代として駿府定番が設置されます。
駿府定番は、四足門の守衛を担当し、駿府城代と同様に老中支配でした。
御役高1000石・御役料1500俵、芙蓉間詰めだったということです。

このほか、駿府城代・駿府定番を補強する軍事力として駿府在番が寛政2年(1790年まで)まで置かれました。
駿府在番に任じられたのは将軍直属の書院番であり、彼らは軍事力だけでなく合力米の市中換金などを通じて駿府城下の経済にも大きな影響を与えました。

このほか、駿府城代を補佐する役職として駿府勤番組頭・駿府勤番・駿府御武具奉行・久能山総門番などがあり、駿府の庶政を司る役目としては駿府町奉行が置かれました。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。
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