浜松藩(1/2)十二の名家によって治められた

浜松藩

水野家の家紋「水野沢瀉」

記事カテゴリ
藩史
藩名
浜松藩(1601年〜1871年)
所属
静岡県
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浜松城

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浜松藩は、譜代大名によって治められた藩です。
江戸時代、大名はたびたび移封、転封といって藩を移らされましたが、浜松藩は特に大名の入れ替わりが激しいことで知られています。
また、城主が幕府の要職に数多く付いていることから、藩主の居城となった「浜松城」は「出世城」とも呼ばれました。

実際、歴代城主の中から兼任を含めて老中5人、大坂城代2人、京都所司代2人、寺社奉行4人を排出しています。
そんな浜松藩の歴史を紐解いて生きましょう。

浜松藩の誕生

浜松の地は、徳川家康が浜松城城主として29歳~45歳までの17年間治めました。
この間に、家康は三方ヶ原の合戦を皮切りに、姉川、長篠、小牧・長久手の戦いなど日本史に名が残る戦いに参戦し、歴史の表舞台に躍り出てきます。

天正18年(1590年)小田原征伐が起こり北条氏が滅亡すると、豊臣秀吉は徳川家康を武蔵へ移封し、浜松城は豊臣氏の重臣・堀尾吉晴が12万石で入りました。
その後、子の堀尾忠氏が2代目城主となります。

堀尾忠氏は慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の戦いで東軍について活躍したため、江戸幕府が開かれた後、出雲富田藩(後の松江藩)に加増移封されました。

その後、浜松城には徳川氏譜代の重臣・松平忠頼が美濃金山藩から5万石で入ります。
ここに、浜松藩が誕生しました。

譜代大名によって治められた浜松藩

初代浜松藩藩主、松平忠頼は徳川家康異父妹を母として生まれました。
つまり、徳川家康の甥にあたります。

関ヶ原の戦いの後浜松藩を5万石で与えられましたが、慶長14年(1609年)、従弟の水野忠胤の江戸屋敷に招かれた際、茶室で同席していた久米左平次と服部半八の争論に巻きこまれて刺殺されてしまいました。
まだ28歳の若さであり、これによって桜井松平家は改易になってしまいます。
なお、この騒動の責任を取って水野忠胤と服部半八は切腹を申しつけられています。

桜井松平家が改易されたことにより、2代目の藩主として徳川家康の母方の従兄弟にあたる水野重央が移封されてきました。水戸藩の家老から2万5,000石を与えられての出世です。慶長19年(1614年)の大坂冬の陣では初陣を飾った徳川家康の十男、徳川頼宣を補佐して活躍します。
そして、徳川頼宣が紀州藩に移ると、水野重央は再び家老にもどって死ぬまで徳川頼宣を支えました。

3代藩主高力忠房は、島原の乱後に島原藩へ移封され、4代藩主松平乗寿は、浜松城主になってから4年後に徳川家綱の老中になり、その2年後に上野館林6万石に加増移封となります。
その後、浜松藩の藩主になったのは太田資宗です。5代目藩主の座に就いた太田資宗は、父の妹が徳川家康の側室、という徳川家に大変近い人物です。
3代将軍・徳川家光の側近として幕府を支えました。
武家系譜編纂書『寛永諸家系図伝』を完成させた人物としても知られています。

5代目藩主にしてやっと、次男である太田資次に跡を継がせることができましたが、太田資次は、藩主になって7年後の。延宝6年(1678年)、大坂城代に任じられたことをきっかけに、2万石を加増された上で所領を摂津・河内・下総などに移封されました。

次に浜松藩の藩主になったのは、青山宗俊です。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。
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