岡崎藩(2/2)石高は低いが格は高い

岡崎藩

水野家の家紋「水野沢瀉」

記事カテゴリ
藩史
藩名
岡崎藩(1602年〜1871年)
所属
愛知県
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岡崎城

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水野氏が転封された後、一時的に松平康福が城主になりますが、彼は寺社奉行、大坂城代、と幕府要職についていたため、国元に入ることはほとんどありませんでした。岡崎藩主になったのも、老中になるための箔付けといった感じです。

松平康福は田沼億次と強い繋がりがあり、自分の娘を嫁がせています。1代のうちに何度も国替えを経験し、田沼億次とともに失脚したため、藩での功績はほとんどありませんでした。

その後、岡崎藩は忠勝系本多家宗家11代目にあたる本多忠粛が入ります。
この本多家が幕末まで岡崎藩の藩主を務めました。

この頃、藩の財政はかなり厳しく、本多家2代目藩主本多忠典は、幕府へ豊かな地へ再度移封を願い出たり、預かり地を与えてもらえるように願い出たりしていますが、いずれも却下されています。
そのかわり、1万両を10年かけて与えられたり、諸役も免除されたりするなど優遇措置も受けています。
彼は27才の若さで亡くなったため、養子の本多忠顕が3代目藩主となります。この際、相次ぐ養子相続から、家督抗争が起こりますが大きな騒ぎになる前に沈静化しました。

しかし、本多忠顕は、中根忠容と服部平兵衛という家臣が財政建て直しに東奔西走して借金を23万両に減らすことに成功したのをいいことに遊興にふけり、彼らが相次いで失脚した後も、藩政を顧みませんでした。
そのため、藩の財政は再び困窮し、武具も馬も維持していくことができないところまでとなります。

破産寸前の藩を受け継いだ4代目藩主本多忠考は病弱で藩政が満足に取れなかったうえ、矢田川の洪水など天災が発生し、藩はさらに窮乏します。

跡を継いだ養子の本多忠民は老中を2年務めるなど幕末の幕臣として活躍しましたが、国元にはあまり帰りませんでした。

そして、最後の藩主本多忠直の時代、岡崎藩は明治政府に恭順の意思を示して明治を迎えます。
彼はヨーロッパへ留学するなど見聞を広げましたが37才の若さで死去、その後は養子の
本多忠敬が継ぎます。
彼は、廃藩置県の後岡崎城を公園に整備して市に寄付をしたり、岡崎市の教育事業に携わったりするなど、故郷の発展に尽力しました。

岡崎藩まとめ

岡崎藩は徳川家発祥の地であり、岡崎藩藩主の地位は一種の名誉職のように扱われました。
そのため、本多家や水野家など格の高い大名家が移封されます。
しかし、藩の財政は苦しく一時期を覗いてつねに破産寸前だったようです。
なお、最後まで藩主を務めた本多家はまだ現存しており、現当主はたびたび徳川家関係のイベントなどでも登場しています。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。
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