福知山藩(2/2)文化人の大名を複数輩出
有馬家の家紋「有馬巴」
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5代目藩主である朽木玄綱の代で享保の大飢饉が発生し,「享保の強訴」と呼ばれる大騒動が勃発します。
これを受けて朽木玄綱は自らの生活を極限まで切り詰めて藩の財政を建て直そうと尽力したり、明智光秀御霊法会の開催を許可したりしました。なお、この御霊会法会は現在も御霊会祭として受け継がれています。
6代目藩主の朽木綱貞は、狩野典信に絵を習い、「学古帖」などの作品を残すほど文化的な才能に恵まれた人でした。しかし、政治能力が皆無だったため、家督争いや財政難が深刻化します。
7代藩主朽木舖綱は、『擬独語』を著わし、藩校創設の基礎を築き上げるなど文治政治に尽力しましたが、家督を継いで7年後に改革の道半ばにして病死してしまいました。
8代藩主朽木昌綱は、幼い頃から古銭集めが趣味で安永元年(1772年)には、蘭学の前野良沢に入門します。
同期には「解体新書」を翻訳した杉田玄白などもいました。
オランダ商館長とも盛んに交流し、藩主となった38歳のときには『西洋銭譜』を刊行しました。
その後も、『泰西輿地図説』、『和漢古今泉貨鑑』、『新撰銭譜撰』など数々の著作を世に出し、文化人としては超一流の才能を見せます。
その反面、政治力はあまりなく、藩政は傾き続けます。
なお、彼が集めた古銭はその後藩政建て直しのために海外に売られ、その一部が大英博物館に収蔵されています。
9代目藩主朽木倫綱は36歳の若さで早世。
10代目藩主朽木綱方は、領内で火災などの災害が多発してますます財政が悪化すると藩政に興味を失ってさっさと隠居してしまいます。
11代目藩主朽木綱条も有能な人物で将来の老中候補とも言われましたが、やはり36歳で早世しました。
12代目朽木綱張の時代、原井惣左衛門、市川儀右衛門という2人の人物が「藩政改革」の名の下、領民に重税を課した結果、万延元年(1860年)に大規模な百姓一揆が発生します。
朽木綱張はその責任をとって、幕府から任された奏者番を辞任しました。
その後、幕末に佐幕派として摂津国の海防警備、禁門の変、第二次長州征討に参加しますが、明治維新を見届けないまま53歳で病没します。
最後の藩主である朽木為綱は旧京都所司代邸の警備にあたるなど、佐幕派として活動しますが、鳥羽・伏見の戦いでは幕府軍に合流できずに撤退、そして西園寺公望率いる山陰道鎮撫使に降伏しました。
明治維新後は福知山県藩知事となりますが、明治4年に免官となって東京へ移住します。
その後、再度福知山に戻って困窮している士族の救済に力を尽しましたが、39歳で亡くなりました。
なお、実子の朽木綱貞は陸軍の少将となり火薬の権威として活躍しています。
福知山藩まとめ
福知山藩は朽木家が治めはじめたときから財政が傾きはじめ、幕末まで何度も百姓一揆が起こりました。
代々藩主を務めた方々は文化的な才能にすぐれ、財政が豊かな藩であったらもっと大きな功績を残したかもしれません。
朽木家の所蔵品は現在、福知山城内の郷土史博物館などで定期的に展示されています。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。