唐津藩(1/2)5つの大名家が治める
小笠原家の家紋「三階菱」
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唐津藩は現在の佐賀県唐津市(備前国唐津)を領地とした藩です。
豊臣秀吉と徳川家康の両方に仕えた寺沢広高が起ち上げた藩であり、明治維新まで5つの大名家によって治められました。そんな唐津藩の歴史を紐解いていきましょう。
寺沢家から土井家までの歴史
唐津の地は、豊臣秀吉と徳川家康の両方に仕えた寺沢広高が治めた地です。
彼は、豊臣秀吉の朝鮮出兵に伴い、肥前名護屋城の普請を務めて出征諸将や九州大名への取次を担当したことから出世しました。
また、慶長4年(1600年)に起こった関ヶ原の戦いでは東軍に味方し、所領の安堵だけでなく天草の地、4万石を新たに与えられます。
寺沢広高は8万3000石の外様大名として、唐津城を築城して唐津藩を開きました。
寺沢広高は土木工事が得意で、唐津城だけでなく現在も虹の松原として知られる防風林も作りました。
また、質素倹約に努めて優れた家臣を召し抱えるために苦労を惜しまず、家臣団からは大変慕われていたと伝えられています。
しかし、2代目の藩主となった寺沢堅高の代に天草の乱が勃発します。寺沢堅高は幕府軍とともに乱の鎮圧に邁進しましたが、天草が唐津藩の所領であったことから、乱を発生させた責任を問われます。
なお、天草の乱の責任を問われた大名はほかに島原藩藩主の松倉勝家がいますが、彼が斬首されたのに対し、寺沢堅高は天草領4万石を収公されただけで済みました。
しかし、領地の没収は大名としては大変不名誉なことであり、これを恥じた寺沢堅高は、正保4年(1647年)に江戸にある海禅寺という寺院で自殺しました。
寺沢堅高には嫡子がいなかったので、寺沢家は2代目で断絶します。
その後、唐津藩は大給松平家が移封されてきます。初代藩主は松平乗久ですが、ろくに領地にも入らず江戸で死去しています。
その後を継いだ松平乗春も早世し、3代目松平乗邑は、唐津藩藩主よりも8代将軍徳川吉宗の腹心として老中の座に就き、享保の改革を牽引した人物として有名です。
松平乗邑は、公事方御定書の制定、御触書集成の編纂、検知の実施など幕府の重臣として行った功績が大きい反面、領地である唐津での影は薄く、実施した政策などもほとんどありません。
また、晩年は将軍の後継問題に関わったため、9代将軍徳川家重に疎まれて、隠居を命じられます。その後松平家は出羽山形に転封を命じられ、唐津の地を去りました。
松平家が去った後、唐津の地を治めたのは志摩国鳥羽藩主であった土井家です。
土井家から初代藩主としてたった土井利益は、下総国古河藩、志摩国鳥羽藩と領地を転々とし、石高を減らされて藩の運営に大変苦労していました。
教育熱心だった土井利益は、江戸藩邸に儒学者を招いて一緒に講義を聴いたり、儒学者を家臣として取り立てたりして善政を敷きました。
跡を継いだ土井利実の代に享保の大飢饉がおき、幕府から援助を受けています。
3代目の土井利延は22歳で早世し、土井利里の代で再び移封されて今度は下総国古河藩に移されます。土井利里もまた、幕府の中枢で活躍し、京都所司代などを務めました、
水野家 小笠原家の治世
土井家が移封された後、代わりに唐津藩にやってきたのは水野家です。
三河国岡崎藩から移封されてきました。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。