備後福山藩(2/2)有力な譜代大名家が治める
水野家の家紋「抱き沢瀉」
- 関係する城
この上下銀は取り立てが厳しく「鬼より怖い」と言われていましたが、阿部正右は福山に入るまでこのことを知らなかったといわれています。
しかし、阿部正右は幕府の要職であったことを利用して田沼意次に働きかけて上下銀の返済を凍結、借入れの担当者であった「佐藤新四郎」に全ての責任を押しつけて、藩を追放します。
さらに、本人が老中に出世したことを祝い、領民に「臨時税」を課そうとしたところ、備後福山藩最大の一揆である「天明の一揆」が発生します。
この一揆の責任を問われたこと、さらに老中、田沼意次の失脚によって阿部正右もまた幕府の要職から追われ、失意の内に福山藩に帰ります。
長い間留守にしていた故郷の風紀は乱れきっており、正右は衝撃を受けます。
藩校の福山弘道館を建てるなどして藩の風紀を正そうとしますが、なかなか成果はあがりません。
経費削減や有力商人への接近、農政改革を行いますが、一揆を押さえるのが精いっぱいだったといわれています。
10代目藩主阿部正精も、11代目将軍徳川家斉の元で老中を務め、「江戸の範囲」を決めた老中として名を残しました。
藩政でも、 経費削減と負債償還を目指して頑張ったようですが利子を返すのが背一杯だったようです。
11代目藩主阿部正寧は、幕政にも藩政にも興味が持てず、天明の飢饉など大災害が発生しているのに、28歳の若さで隠居して自分の世界に没頭して生涯を終えました。
12代目藩主の阿部正弘は、ペリー来航、アヘン戦争勃発など幕末の動乱が始まる天保14年(1842年)に老中に就任します。安政の改革の中心人物として、映画やドラマ、小説などにもたびたび登場しています。
講武所や長崎海軍伝習所、洋学所などを創設しますが、急な病により39才の若さで急死してしまいました。
跡を継いだ阿部正教も23才で早世、さらに後を継いだ阿部正方も、大政奉還の直後、戊辰戦争の直前に20才で病死しました。
最後の藩主である阿部正桓は、新政府軍への味方を公言し、明治2年に版籍奉還を行って初代藩知事になります。なお、明治4年伯爵に任命されて上京しようとした彼を領民が押しとどめようとして一揆が勃発、出発が半年以上遅れるという騒動もありました。
なお、上京した阿部正桓は福山教育義会会長として旧藩校誠之館の維持に務めました、
その子、阿部正直は雲の研究者として知られており、戦後気象研究所長に就任して
備後福山藩まとめ
備後福山藩の藩主を長年にわたって務めた阿部家は藩政よりも幕政にその力を発揮した藩主たちがたくさんいました。
特に、阿部政弘は開国を決めた老中として、現在は外交手腕が改めて評価されるなどしています。
なお、阿部家は現在も続いており、17代目藩主の方が積極的に文化活動を行っています。
備後福山藩の記事を読みなおす
- 関係する城
- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。