備後福山藩(1/2)有力な譜代大名家が治める

備後福山藩

水野家の家紋「抱き沢瀉」

記事カテゴリ
藩史
藩名
備後福山藩(1619年〜1871年)
所属
広島県
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備後福山藩は、江戸時代は「備後国」と呼ばれた広島県東部・南部、備中国南西部周辺一帯を治めた藩です。10万石(阿部家7代藩主阿部正弘からは11万石)と、石高としては「大大名」とは言えませんが、初代水野氏より徳川幕府に近しい有力な譜代大名が治め続けた藩です。
そんな、備後福山藩の歴史を紐解いていきましょう。

備後福山藩誕生のいきさつ

福山を含む備後の地は、元々豊臣秀吉と徳川家康の両方に使えた有力大名、福島正則の所領でした。
しかし、福島正則は「武家諸法度」に違反したとして改易されてしまいます。

また、備後から西には毛利家をはじめとする関ヶ原の戦いで西軍に味方した有力大名がたくさんいました。
そのため備後福山は鎮西の要所として、徳川家康のいとこにあたる水野勝成に与えられました。
そして、水野勝成が福山城を築城して城下町を整備して備後福山藩を開きます。

水野勝成は、何度も仕えた大名の元から出奔して各地を流浪したという伝説を持つ武将ですが、備後福山藩を開いた後は放浪時代に臣従していた三村親成を高禄で家老職として召し抱えるなど、放浪時代の人脈を活かして家臣団を作り上げていきます。

また、神田上水に次ぐ規模を持つ上水道網(福山旧水道)や、瀬戸内海から運河を城まで引き入れるなど、城下町整備にも尽力しました。
水野勝成は、75歳で島原の乱に孫を率いて参戦するなど、生涯現役に近い働き方をした藩主です。

跡を継いだ水野勝俊も、父の志を継いで城下町の整備に力を尽します。

3代目藩主の水野勝貞は、城下に遊女町を作り生え抜きの藩士を積極的に登用しましたが、彼が38歳で急死すると家老らの反発に遭い、水野勝貞に重用された重用された側近5人が殉死に追い込まれるという、水野家騒動が発生しました。

4代目水野勝種は7人もの男子に恵まれましたが、全員早世し、しかも本人も36歳の若さで死んでしまいます。

5代目水野勝岑は、わずか1歳数か月で家督を継ぎ、翌年でなくなったため水野家は跡取りがなく、備後福山藩は一旦幕府の直轄地になった後、初代桑名藩藩主となった「松平忠雅」が一時的に治めた後、7代藩主として阿部正邦が岩槻藩からやってきます。

阿部家は、岩槻藩藩主の家系で、阿部正邦は2代藩主阿部正高の次男にあたります。
そして、この阿部家が幕末まで備後福山藩の藩主になったのです。
福山藩に移封されたとき、阿部正邦はすでに53歳であり、最初はこの人事に戸惑ったといわれています。
しかし、正徳元年(1711年)に福山に入ると積極的に藩内の政治に関わりました。

阿部家二代目、8代目藩主となった阿部正福は34年間の長きにわたり藩主を務めましたが、天災が多発し、百姓一揆が多発します。

阿部正福は綱紀粛正や賦役の公正化等を行って藩を建て直そうとしますが、享保の大飢饉で藩政に大打撃をうけたうえ、利根川の普請を幕府から命じられるなどして、藩政は困窮の一途を辿りました。

9代目藩主、阿部正右は幕政にかかわり藩の政治にはほぼノータッチ、10代目藩主阿部正倫も、老中など幕府の要職についています。
しかし、藩の財政は破綻寸前まで追い詰められており、石見銀山の奉行がおこなう「上下銀」にまで貸付を受けていました。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。
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