松前藩(1/2)アイヌとの貿易や林業で国を支えた

松前藩

家の家紋「」

記事カテゴリ
藩史
藩名
松前藩(1604年〜1871年)
所属
北海道
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松前藩は、北海道松前郡松前町にあった藩です。藩主は江戸時代以前から松前氏が務め、明治維新を迎えるまで幕府の直轄地と松前氏の支配が繰り返された珍しい土地です。

また、米作ができないため藩の財政はアイヌとの交易独占によって支えられていました。
そのため、実質大名や藩でありながら「大名」「藩」と正式に認められないという例外的な藩でもありました。
そんな松前藩の歴史を紐解いていきましょう。

松前氏の蝦夷支配の始まり

江戸時代を通して松前藩の藩主を務めた松前氏は、室町時代の武田信広を始祖とする一族です。
武田信広は、甲斐源氏及び若狭武田氏の子孫を名乗っており、家紋にも「武田菱」とも呼ばれる割り菱が使われていますが、真偽の程は定かではありません。

武田信広は、陸奥、蝦夷地、出羽を支配していた安東政季に仕えた蠣崎季繁という人物の後継者となって蠣崎氏を名乗り、渡島半島の南部に地位を築いた後、代を重ねていきます。

蠣崎季広の代には東地のチコモタイン、西地のハシタインのアイヌと和睦し、蝦夷地支配の基礎を築きます。
そして、蠣崎季広の三男に当たる松前慶広は、豊臣秀吉に謁見を果たすと、所領を安堵と同時に従五位下・民部大輔に任じられました。
これをもって蠣崎氏(松前氏)は安東氏より独立したとみなされています。

また、天正19年(1591年)、南部地方で九戸政実の乱が起こると、豊臣秀吉の命により討伐に参加したこと、その際にアイヌの毒矢が非常に効果的あったことなどが記録に残されています。

豊臣秀吉が死去すると、慶長4年(1599年)、松前慶広は蝦夷地図を献上するなど徳川家康に服して蝦夷地に対する支配権を認められました。
なお、松前慶広が松前に姓を変えたのは正式にはこの時期です。

江戸時代の松前藩

慶長4年(1600年)に関ヶ原の戦いが起こり、慶長7年(1603年)に徳川幕府が開かれます。
慶長8年(1604年)徳川家康は松前氏に黒印制書を授けてアイヌ交易の独占権を公認しました。
これをもって松前藩が成立したという意見がありますが、正確には松前氏は大名ではなく交代寄合です。
交代寄合とは、旗本の家格の一つで旗本でありながら領地に居住し参勤交代を義務付けられています。
これは、当時の松前は寒冷で稲作をすることができず、松前藩が建前上「無高」だったためです。
そして、享保4年(1719年)から1万石格の柳間詰めの大名格に格上げされました。

松前藩はアイヌとの貿易を独占する権利を認められていたため、渡島半島の南部を和人地、それ以外を蝦夷地として交通を制限してアイヌと和人が勝手に貿易をすることを禁じました。
また、松前藩は漁場を開拓し、江差に檜山を開き、檜山奉行を置くなどして漁業や林業にも力を入れました。
米作ができなくても、交易・林業・漁業などで財政を支えたのです。

寛文8年(1668年)シャクシャインの戦いが発生します。これは、アイヌの惣大将間の抗争に端を発した争いであり、松前藩は当初中立の立場を貫いて抗争仲裁に入っています。
しかし、シャクシャインに総大将「オニビシ」を殺害されたハニのアイヌが松前藩に武器の提供を依頼する使者を送ったことをきっかけに誤報が広がり、争いはアイヌ同士の争いから松前藩対アイヌの戦いへ変化していきました。

寛文9年(1669年)シャクシャインの呼びかけによって釧路町白樺町から天塩増毛町までの間に済むアイヌが一斉に松前藩への反旗を翻します。

松前藩は幕府に救援を求めると同時に弘前津軽氏・盛岡南部氏・秋田(久保田)佐竹氏の3藩に出兵を要請、銃器を持って弓矢を武器としたアイヌ勢を鎮圧し、結果的にアイヌ交易の絶対的主導権を握ることになりました。

松前藩と京都との関係

政治の中心である江戸とも、天皇が座して文化・文明の中心であり続けている京都とも遠く離れた松前藩ですが、江戸時代初期から京文化が花開いていました。
そのきっかけを作ったのは、花山院忠長という人物です。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。
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