岸和田藩(2/2)大阪南部を治め紀州を監視した
岡部家の家紋「左三つ巴」
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その後、東京に移った岡部長寛は明治7年に福澤諭吉が開いた慶應義塾に入塾、福澤諭吉の目に留って渡米します。
その後、キリスト教信仰を持ち、イェール大学シェフィールド科学学校に学びましたが中退、帰国後、明治15年には渡英してケンブリッジ大学で学んだりヨーロッパ各国を歴訪したりした後、明治16年に帰国します。
その後、在英国公使館勤務など要職を経て東京府知事の座に就きました。
晩年は大正天皇の側近を務めるなど、明治になってから大活躍した珍しい大名といえます。
なお、彼の3男にあたる村山長挙氏は、村山家に養子に入った後、朝日新聞社の社長になりました。
まとめ
岸和田藩は天明の飢饉が起きるまで大きな災害にも襲われず、比較的豊かな藩でした。
また、財政が傾いた後にも有能な藩主が現われて建て直しに成功をしています。
最後の藩主である岡部長職氏は藩主で過ごしたのはわずか1年、その後米国や英国に留学し、国の要職を歴任しています。
なお、岡部家は三菱の創業者岩崎家と婚姻を結び、現在も子孫が活躍しています。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。