鳥取藩(2/2)3つの池田家が治める
池田家の家紋「備前蝶」
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跡を継いだ池田綱清は、日本全国の藩主の様子が描かれた「土芥寇讎記」という本に「美女や美童を愛して昼夜を分けず。故に政事を知らず家老任せ也」と書かれています。
実際、藩政にはあまり関わらなかったようで、父光仲が心血を注いだ藩主親政あっけなく終了し、政治の実権は家臣団に移っていました。
隠居後、弟を藩主にして若桜藩という支藩をつくっています。
5代藩主池田吉泰は、鳥取藩内で天災が続いて藩政が不安定になったことを理由に綱紀粛正令や倹約令を出す一方、自分は参勤交代の途中で気に入った能面を買い求め、最終的に800もの能面を所有する散財をしました。
6代藩主宗泰は、藩主の座について早々、増税に反対した領民による大規模な一揆「元文一揆」に遭遇します。この一揆を受けてもう一度倹約令を出しますが、その後すぐに31歳の若さで病没します。
7代藩主池田重寛は父の病没に伴い2歳の幼さで藩主の座に就きます。藩政は母・桂香院が後見し藩政を運営しました。彼もまた38歳という若さでなくなりました。
8代藩池田治道の時代、彼の長男と次男のどちらが藩主の座に就くか家臣団の間で争いが起きます。結果的に家臣の一人が切腹する事態となり、治道は長男を正式に世継ぎと定めます。
なお、結果的になりますが、長男は子どももなく早世したため次男もまた藩主の座に就くことになります。
この頃鳥取藩は、幕府の手伝い普請、天災などで藩財政が窮乏しますが、その一方で賢臣に恵まれ藩政改革は進みました。
しかし、財政再建までは至らず、治道は31歳で病没しました。
9代目藩主の池田斉邦は僅か21歳で死去、後を弟の池田斉稷がついで10代目となります。
池田斉稷は徳川家斉の13男を養子に迎えており、これにより池田家は他家から養子を迎えることが解禁となりました。なお、養子になった徳川家斉の子ども、斉衆は疱瘡で早世したため、後継は実子の誠之進となります。
11代藩主池田斉訓も21歳で夭折、12代藩主の池田慶行も17歳で死去します。13代藩主となった池田慶栄も、24歳で病没してしまいました。
14代藩主の池田慶徳は最後の藩主であり、徳川家斉の実子です。岡山藩の藩主池田茂政は同母弟、最後の将軍である徳川慶喜は異母弟に当たります。
そのため、幕末の動乱の中、奉勅攘夷と決した幕議に対し、異議を唱えて将軍後見職辞任を表明し登城を拒否していた異母弟一橋慶喜の説得に当たるなど、鳥取藩の城主というより、徳川家の一員として動きます。
その一方で、鳥取藩では沿岸9カ所の要地に西洋式の台場が築造され、大阪湾に侵入した英国船を砲撃するなどします。
さらに、阿波藩世子の蜂須賀茂韶、同母弟の岡山藩主池田茂政、米沢藩主上杉斉憲と連携し、攘夷親征派に対抗する在洛諸侯集団を結成し、朝廷への参内も許されるようになりました。
しかし、歴史の流れを押しとどめることはできず、八月十八日の政変と本圀寺事件を経て薩摩・長州の親王派が優勢になると、中央政治の場から退き、慶喜が再三依頼したにも変わらず、同母弟の池田茂政と共に、返り咲くことはありませんでした。
その後、池田慶徳は戊辰戦争などに参戦し、明治になると従二位・権中納言に叙され、大政奉還のあとは鳥取藩知事に就任します。
鳥取の財政難から、自ら廃藩置県を政府に進言し、明治8年に隠居、明治10年に死去しています。
まとめ
鳥取藩は池田氏により岡山藩と共に江戸時代初期から明治まで治められました。なお、最後の藩主の嫡子である池田輝知は30歳で夭折したため、池田家は徳川慶喜の5男池田仲博が養子に入り、池田輝知の娘と結婚して跡を継ぎます。現在18代当主の座に池田百合子さんがついていますが、実子はいないため、実質上池田家はここで絶家となります。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。