臼杵藩(2/2)開藩から1つの家が治め続ける
稲葉家の家紋「折敷に三文字」
- 関係する城
九州は島原の乱勃発後情勢が不安定でしたが、三代藩主の稲葉一通は幕府から国境警備を命じられ、それに対応しつつ城下で自社の整備などを続けています。なお、余談ですが稲葉一通の六代目の子孫に当たる勧修寺?子という人物が仁孝天皇の生母に当たるため、現在の皇室には稲葉氏の血も流れています。
五代藩主稲葉景通の頃に城下町の整備と藩政の仕組みが整います。特に、景通は民政に力を入れて港の整備なども進めたため中興の祖の名君として現在も敬われています。
なお、この五代藩主稲葉景通は、父と母両方から明智光秀、織田信長の血を受け継いでいる珍しい人物でもあります。
臼杵藩は九州の小藩ではありますが、臼杵港を抱えており海運の要所であり、藩主が民政に力を入れていたため、六代藩主までは藩政は安定していました。
しかし、七代目藩主稲葉恒通の頃になると幕府の普請手伝いにかかる金額が財政を圧迫していきます。そのため、稲葉恒通は倹約例を出して藩の建て直しを務めますが、自身が31才の若さでなくなってしまったこともあり、倹約令は失敗に終りました。
八代藩主稲葉董通も29才、九代藩主稲葉泰通も藩主になって1年後に急死とこのころ臼杵藩は政情が安定しませんでした。それに加えて江戸藩邸が火災で焼失、領地では大火と大雨による自然災害が立て続けに起り、領民が大量に逃げ出すという災難に見舞われます。
十代藩主稲葉弘通は側室の子どもであったため、本来は藩主の座に就ける立場ではありませんでしたが,嫡子扱いになっていた弟の稲葉福通が幼くしてなくなったため、急遽跡を継ぎました。
財政窮乏を何とかしようと借上げおこなったり御用金を商人から取り上げたりしましたが、天明の大飢饉があり、焼け石に水でした。
さらに、幕命によって美濃・伊勢の河川普請手伝いに駆り出されたので、財政はますます困窮します。
十一代目藩主稲葉雍通の代になり、やっと村瀬通吉を登用して、倹約や殖産興業政策などの藩財政改革を行い、成功を治めました。
しかし、このときも百姓一揆が勃発するなど、藩政は決して安定しませんでした、
なお、稲葉雍通は、藩内に武術稽古堂や学問所を作り、教育にも力を入れています。
十二代目~十三代目の藩主はいずれも20代半ば~後半に早世しており、碌な功績を残せませんでした。このとき、稲葉家は末期養子を繰り返すことでかろうじて家をつないでいます。
この時期、世の中は幕末の動乱を迎え、幕府の方も九州の小藩にかまう暇がなかったのではという意見もあります。
十五代、最後の藩主となった稲葉久通は、観通の姉妹を娶り土佐藩の山内容堂と縁戚でもあります。
そのため、明治時代間近まで佐幕派であり、隣藩の岡藩から尊皇攘夷運動の誘いを受けてもきっぱりと断ったという逸話が伝わっています。
慶応3年(1867年)10月、朝廷から上洛を命じられてもなかなか応じず、その翌年の3月にようやく上洛しました。これは、豊後の諸藩の中で最も遅い上洛でした。
そのかわり版籍奉還は豊後の諸藩に先駆けて行い、早々に藩知事に任命されます。
明治4年(1871年)の廃藩置県により藩知事を免官された後は、慶応義塾大学に入学し、子爵に任命され、51才の生涯を閉じました。
臼杵藩まとめ
臼杵藩は短命の藩主が多く、10代目~15代目まではただ藩主の座を継いでいくだけの存在でした。
しかし、最後の藩主稲葉久通の孫は昭和天皇の遊び相手を務めるなど皇族とも関係が深く、戦前まで臼杵稲葉子爵家が東京の原宿に存在していました。
なお、現在の臼杵市には旧臼杵藩主稲葉家下屋敷が現存し、代々稲葉家に伝わる武具や籠などが展示されているほか、建物の一部は市民に開放されています。
臼杵藩の記事を読みなおす
- 関係する城
- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。