臼杵藩(1/2)開藩から1つの家が治め続ける
稲葉家の家紋「折敷に三文字」
- 関係する城
臼杵藩は大分県臼杵市に存在した藩です。藩が開かれてから明治維新まで稲葉家によって治められまし。そんな臼杵藩の歴史を紐解いていきましょう。
江戸時代以前の臼杵藩
江戸時代以前、臼杵の地を含む豊後の地は大友家によって治められていました。
臼杵城はキリシタン大名としても有名な大友宗麟の手によるものです。
築城当時、臼杵城内には礼拝場があり、城下町にも修道僧を育てる修練場があったと伝えられています。
当時、九州は複数の大名家が覇権を巡って争っており、その中でも島津家は周辺の大名家を次々と傘下に収め、大友氏とも戦を繰り返していました。
天正14年(1586年)に大友宗麟は天然の要害である臼杵城に籠もり、島津氏を迎え撃つ「丹生島の戦いで」かろうじて島津家を退けたものの、自身も翌年死去します。
跡を継いだ嫡子の大友義統は、豊臣家の傘下に入ることを条件に、島津氏征伐の協力を仰ぎます。その結果、豊臣秀吉は九州を制圧し、大友氏は豊臣家の大名となりました。
しかし、大友義統は文禄の役で敵前逃亡をした罪を問われ、改易されてしまいます。
これにより、大友氏の豊後支配は終わりを告げました。
その後、慶長5年(1600年)まで、太田一吉ら複数の大名が城代として入り、臼杵城の改築などを行っています。
稲葉氏の支配
慶長5年(1600年)に起った関ヶ原の戦いが東軍の勝利で終ると、太田一吉は西軍に与したために改易されます。
その代わり、豊後の地に入ったのが、稲葉貞通です。彼は、春日局の外祖父にあたり、西美濃三人衆の一人稲葉良通の子でもあります。美濃国郡上八幡4万石から臼杵5万石に増加となりました。
江戸時代の藩は複数の大名家によって治められるケースが多いのですが、稲葉家は臼杵藩が開かれてから明治時代までずっと同じ藩を治め続けた珍しい事例といえます。
なお、稲葉良通は徳川家光の乳母である春日の局の血縁に当たりますが。稲葉貞通は外様大名扱いでした。
- 関係する城
- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。