府内藩(2/2)天災に多く見舞われる
大給松平家の家紋「丸に釘抜」
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4代目藩主の松平近貞の時代、城下町に大火が起こった上、享保の大飢饉が発生します。さらに蝗害も発生し、藩の財政は一気に悪化します。
府内藩はこのとき、幕府に5,000両を超える借金をしたうえで厳しい倹約令を発布して財政の立て直しを試みますがうまくいきませんでした。
5代、6代の藩主達も財政再建に尽力しますが、虫害・大火・水害などが藩を襲い、さらに「銭瓶石騒動」という府内藩と天領地である赤松村との境界を巡る争いが勃発し、5代藩主松平近形が逼塞二か月の処分まで受けてしまいます。
しかも、6代目藩主の松平近儔は隠居しても実権を手放そうとせず、7代目藩主は30代という短命でなくなり、8代藩主は6代目藩主との意見の違いから思うように藩政の舵を取れず、失意のうちに引退します。
9代藩主松平近信の時代になると江戸屋敷を売り払うまでに財政が逼迫しました。そのため、藩校などの学問に力を入れることができるようになったのは、最後の藩主である松平近説の時代です。
松平近説は幕末、若年寄や寺社奉行、会計奉行などの幕府の要職を兼任しますが、国元では大政奉還後に国元で勤王派の増沢近篤(8代藩主松平近訓長男)が藩主代理に冊立されてしまい、祖国に裏切られる形になりました。
大政奉還後は、恭順の姿勢を示すため上洛したものの謹慎を命じられるなど苦労を重ね、明治2年(1869年)には藩知事に任命されます。しかし、二年後に廃藩置県によって藩知事を解任され、隠居しました。
府内藩まとめ
府内藩は2万石という小藩で、天災の多い藩でした。水害・干ばつだけでなく虫害や火災、地震も多く発生し、藩主はその対応に追われて一生を終える者も珍しくなかったのです。
特に、松平家の支配中はほぼ藩の財政は破綻状態で、江戸屋敷を売り払うまでになっています。
そのため、寛保3年(1743年)の火災で天守が焼失したときは再建もされず幕末を迎えました。
最後の藩主松平近説は幕末に大給(おぎゅう)と姓を変え、養子を迎えています。
養子の子に当たる大給近孝は貴族院子爵議員となり、皇室にも仕えました。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。