広島藩(2/2)浅野家が治め続ける

広島藩

福島家の家紋「沢瀉」

記事カテゴリ
藩史
藩名
広島藩(1600年〜1871年)
所属
広島県
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広島城

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10代目藩主、浅野慶熾は幼年から聡明で賢君となる予感がありましたが残念ながら、家督を継いで半年後に死去します。
11代目藩主浅野長訓の時代も藩の財政は大変厳しかったのですが、野村帯刀・辻将曹の両名を家老として登用して藩政改革を実施、有能な人材を身分に関係なく登用し、洋式軍制の導入も行って藩政を立て直しました。

慶応2年(1866年)、第二次長州征討が勃発した際には、停戦を主張し、岡山・徳島両藩主との連署をもって幕府・朝廷に征長の非と解兵を志願しました。
なお、明治元年には明治政府に恭順の意を示すために徳川家からもらった諱である浅野茂長を浅野長訓に改めています。
大変領民に慕われており、家督を譲った彼が東京に移住しようとするとそれを引き留めようと農民たちが「武一騒動」という一揆をおこしています。

12代目、最後の藩主になった浅野長勲は、藩主につく前から養父浅野長訓を助け、江戸幕府と朝廷間の折衝に尽力した人物です。
広島藩は頼山陽の尊皇思想を柱に平和的に倒幕を行う方向で意見を一致させていました。第二次長州征伐は大義がないと出兵を拒否する藩士たちに、老中・小笠原壱岐守長行が反発します。
藩内では小笠原壱岐守長行を討つべしとの声も上がりますが、長勲は広島城内の大広間に全家臣を集めて老中を討つのはまかりならぬと説得しました。
その結果、内乱は免れましたが小笠原壱岐守長行は広島を去り、広島藩は出兵を拒否したまま第二次長州征伐が始まりました。

大政奉還の際も長勲は薩長と幕府の調停役に奔走しますが、結局大政奉還の建白書を土佐藩が抜け駆けで幕府に単独提出したことで、穏便な譲渡は立ち消えになり、戊辰戦争が勃発します。
この時の広島藩の動きは薩摩藩・土佐藩・長州藩などの動きに比べて地味で目立ちません。
しかし、平和に時代が移り変わるように尽力したのです。

なお、戊辰戦争の際に広島藩は「神機隊」と呼ばれる藩士と農民1,200人で構成された軍隊を派遣しています。西洋訓練を受けて最新鋭の武器を備えたえりすぐりの先鋭部隊で、相馬藩・仙台藩・旧幕府軍の連合軍などと戦い、戊辰戦争を早期終結させるのに一役買いました。

明治政府樹立後、長勲は藩主の座を退き、明治5年に日本最初の洋紙製造工場・有恒社を創立します。この製紙会社は大正時代に王子製紙に吸収合併されるまで稼働していました。
その後、明治14年(1881年)に元老院議官となり、翌年にはイタリア公使となり、ヨーロッパやアメリカを歴訪します。その時の経験を活かし、のちに旧藩内の若者や自身の容姿を、イギリスやフランスに留学させています。

その後も明治22年(1889年)に創刊された新聞「日本」への出資、十五銀行の頭取を務めるなど実業家としても大活躍して、94歳という長寿で亡くなりました。

広島藩まとめ

浅野氏は広島藩を初期から幕末まで治めました。
短命に終わった藩主も多かった半面、賢君も多く、特に12代目の浅野長勲は実業家としても有名です。
なお、浅野氏の家系はまだ続いており、現当主の浅野長孝氏は藩校がルーツである修道中学校・修道高等学校や広島修道大学を運営する学校法人修道学園名誉学園長を務めています。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。
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