熊本藩(1/2)加藤家と細川家が治める
細川家の家紋「九曜」
熊本藩は「肥後藩」とも呼ばれ、球磨郡・天草郡を除く地域と豊後国の一部を治めた藩です。藩庁は熊本城であり、「築城の名手」と呼ばれた加藤清正を祖とする加藤家と細川家によって治められました。
そんな熊本藩の歴史を紐解いていきましょう。
加藤家の統治
肥後は室町時代は守護の菊池氏、戦国時代に入ると豊後国の大友氏によって治められてきましたが、天正15年(1587年)に豊臣秀吉の九州平定によって領地は豊臣家のものになりました。
豊臣秀吉は当初、肥後の領主に富山城主であった佐々成政を任命しましたが、佐々成政は肥後制定を急ぐあまり、検地を強引に行って肥後の国人たちの怒りをかい、「肥後の国人一揆」が勃発します。
佐々成政は自力で一揆を治めることができず、秀吉に援軍を頼みました。
そのとき、駆けつけたのが加藤清正と小西行長です。この2人の活躍により一揆は鎮圧しますが、佐々成政は一揆をおこした責任を問われ切腹させられます。
そして、肥後の土地は北部が加藤清正、中・南部が小西行長に与えられたのです。
しかし、慶長5年(1600年)に関ヶ原の合戦がおこると小西行長は西軍につき、加藤清正は東軍につきます。
その結果、小西行長は斬首となり、加藤清正に小西行長の土地も与えられることになりました。
これにより、加藤清正は52万石の大名になり熊本藩が成立します。
加藤清正は茶臼山丘陵に熊本城を築き、藩庁としました。
また、天守閣が完成した記念に隈本を「熊本」と改めます。
このほか、清正は城下町や道路網を整備し、新田開発、灌漑用水の整備により治水を図るなど当地の基礎を築きました。
現在も加藤清正は熊本で大変慕われており、清正公さんと慕われています。
ただし、加藤清正は秀吉の朝鮮出兵の費用を工面するために藩の百姓に重税を課すなどその統治には負の側面もありました。
加藤清正は慶長16年(1611年)に亡くなり、その後を3男の加藤忠広が継ぎます。この時、まだ11歳という若年だったため、江戸幕府は加藤家に9か条の条件を出し、貢献を藤堂高虎が務め、後を継ぎました。
この条件の中には、「水俣城、宇土城、矢部城の廃止」や「支城主の人事と重臣の知行割は幕府が行う」といったものもあり、幕府が熊本藩の重臣たちをけん制したかった意図が分かります。
しかし、二代目藩主加藤忠広は家臣団を抑えることができず、「牛方馬方騒動」をはじめとする、重臣たちの対立が発生し、藩政は混乱しました。
そして、寛永9年(1632年)、江戸参府の際、そのまま改易の沙汰を受けました。
加藤忠広の改易の正式の理由は徳川家康の孫にあたる徳川忠長が起こした駿河大納言事件に連座したなど諸説ありますが、はっきりをわかっていません。
加藤忠広は、その後出羽国庄内に配流となり、加藤家は断絶しました。
細川家の統治
加藤家が断絶した後、変わって豊前国小倉藩より、細川忠利が藩主としてやってきます。当時の石高は54万石でした。そして、この細川家が明治まで熊本藩を統治します。
細川忠利は、死後も多くの人に慕われていた清正公を尊重し、熊本に入るときは清正公位牌を行列の先頭に掲げて入国し、その後は加藤家の家臣を多く召し抱えたと伝わっています。
細川忠利は、入国後に領地を「手永」と呼ばれる行政区画に分けて村を束ね、責任者として惣庄屋を置く制度を導入し、明治時代まで続けました。
また、忠利は寛永17年(1640年)に熊本藩へ剣豪として知られる宮本武蔵を招いたことでも有名です。忠利は宮本武蔵を7人扶持18石に合力米300石で召し抱え、客分待遇で接しました。宮本武蔵が画や工芸にいそしみ、さらに「五輪書」を執筆できたのは細川家の保護があったからと言われています。
また、細川忠利は外様大名ではありますが幕府の信頼も篤く、55歳で急死した際は三代将軍徳川家光が「早すぎる」と嘆いた、という話も伝わっています。
2代藩主細川光尚は、島原の乱を鎮圧するなど一定の功績を上げますが、31歳の若さで亡くなってしまいます。跡継ぎの細川綱利がそのときわずか6歳であり、あやうくお取りつぶしの危機を迎えますが、幕府からの信頼が篤かったことと細川家家臣が奔走したことにより、何とか家名を存続することができました。
細川綱利は、元禄15年(1702年)に吉良義央を討ち取った大石良雄をはじめとする赤穂浪士17名を預かった大名として知られています。
細川綱利は大石良雄と直接対面して話を聞き、浪士たちをごちそうや酒やたばこでもてなし、たいそう感謝されたという話が伝えられています。
また、幕府に助命も嘆願しており、それが叶うならば赤穂浪士全員をそのまま細川家で召し抱えという希望までしています。
その願いは残念ながら叶うことはありませんでしたが、細川綱利は赤穂浪士たちが葬られた泉岳寺に金30両の葬儀料と金50両の布施をしました。
また、浪士たちが切腹した庭を生涯清めることをせず屋敷の名所としたという話もあります。
4代目藩主細川宣紀の時代、熊本藩は旱魃・飢饉、虫害、イナゴの大発生、など天災が立て続けに起こって凶作になり、餓死者が数千名でるという凶事に見舞われます。
そのうえ、3代藩主細川綱利はやや浪費財政だったため、藩の財政はたちまちひっ迫しました。
これに加えて幕府は細川家に利根川普請で15万両の支出負担を担わせます。これにより藩財政は破綻寸前となります。
- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。