薩摩藩(2/2)維新の立役者
島津家の家紋「丸に十の字」
9代藩主島津斉宣は、父島津重豪との主導権争いが激化し、さらに薩摩藩の財政改革問題から、「近思録崩れ」と呼ばれる内紛が起こります。
この責任を取って、強制的に隠居させられました。
その後を継いだ10代藩主島津斉興は、島津斉彬の父に当たります。
島津重豪が89歳で死去した後にようやく実権を握ることができ、「借金の250年分割支払い」という事実上の棒引きを実現させた後、清との密貿易、砂糖の専売、偽金作りなどで悪化していた財政を一気に快復しました。
同時に洋式砲術の採用を決めたり、藩士を長崎に派遣して学ばせたりするなど、西洋文化の吸収にも貪欲でした。
しかし、嫡子の斉彬より側室・お由羅の方との間に生まれた島津久光を藩主にしようと画策したため、「お由羅騒動」というお家騒動にまで発展します。
この騒動は、結局、老中・阿部正弘の調停によって斉彬が跡を継ぐことで決着しましたが、50名以上の処分者が出ました。
島津斉興は11代藩主斉彬が50歳で父よりも先に病死すると再び実権を握り、西郷隆盛を奄美大島にかくまい、その死を偽装するなどしています。
11代藩主島津斉彬は、幕末を部隊とした小説や映画では頻繁に名前が挙がります。
13代将軍・ 徳川家定の正室、天璋院篤姫の養父であり、明治維新の中心人物となった大久保利通や西郷隆盛などの偉人を育成しました。
藩内では、富国強兵や殖産興業に着手して国政改革にも貢献しました。
一例を挙げると、洋式造船・反射炉・溶鉱炉の建設、地雷・水雷・ガラス・ガス灯の製造などです。
幕府に献上した西洋式軍艦「昇平丸」は、後に咸臨丸と共に蝦夷地開拓で活躍しています。
このほか、松平慶永・伊達宗城・山内豊信・徳川斉昭・徳川慶勝らと深い交流を持ち、公武合体・武備開国を強く主張しました。
同時に、安政5年(1858年)に大老に就いた井伊直弼と将軍継嗣問題で激しく対立しています。この対立は、井伊直弼が反対派を弾圧する安政の大獄を行うなどしたため斉彬が破れます。
なお、天璋院篤姫が13代将軍徳川家定に嫁いだのはこの将軍継嗣問題を解決するためでもありました。
斉彬は、第14代将軍・徳川家茂が確立されたとき、藩兵5,000人を率いて抗議のため上洛することを計画していましたが、その直前、鹿児島城下で出兵のための練兵を観覧の最中に急病に倒れ、そのまま死亡しています。
死因は「コレラ」との説がありますが、あまりに急な発病と死去、そして症状がコレラに該当しないことから「毒殺」説も現在まで根強く残っています。
最後の藩主である島津忠義は島津久光の子どもですが、養父の志を継ぎ、15代将軍・徳川慶喜が大政奉還した後、西郷隆盛・大久保利通・小松帯刀らの進言を受けて薩摩藩兵3千を率いて上洛し、王政復古の大号令に貢献します。
明治維新後は版籍奉還を行い、薩摩藩知事になりましたが自身は東京にとどまり、藩政はほぼ西郷隆盛に任せきりだったといわれています。
明治4年、廃藩置県後は公爵に任ぜられますが、政府の命令によって東京にとどまり、西南戦争にもほぼ係わりませんでした。
ちなみに、娘の邦彦王妃俔子は、昭和天皇の皇后、香淳皇后の母に当たるため、島津忠義は今上天皇の直系の高祖父に当たります。
薩摩藩まとめ
薩摩藩は鎌倉時代から薩摩に入り、勢力を伸ばし続けた島津氏が治め続けた藩です。
薩摩は決して豊かな地ではありませんでしたが、郷土愛が強い代々の藩主達によってしっかりと治められ、やがて明治維新を起す人材を育て上げました。
島津斉彬が最も有名ですが、彼を育てた土壌は、曾祖父の島津重豪が作ったといってもいいでしょう。
現在も島津の血流は皇室の中に流れ続けています。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。