薩摩藩(1/2)維新の立役者
島津家の家紋「丸に十の字」
薩摩藩は、島津氏によって江戸時代を通して治められた藩です。
島津氏は鎌倉時代に源頼朝によって祖である島津忠久という人物が島津荘地頭職に任じられて以来、九州全土を支配するべく戦いを続けてきた一族です。
豊臣政権下で一部の地域を除いてほぼ九州全制覇を成し遂げ、徳川氏や上杉氏、前田氏などに続いて、全国で5番目石高の多い大名にまで登り詰めました。
また、幕末には明治維新の立役者になった藩でもあります。そんな薩摩藩の歴史を紐解いていきましょう。
江戸時代以前の島津氏
島津氏は、鎌倉時代、源頼朝によって島津荘地頭職に任じられた島津忠久という人物を祖とする一族です。
南北朝時代には後醍醐天皇の鎌倉幕府討幕運動に参加し、同じ氏を持つ家同士が家督を巡って戦い合うなどしながら、九州全土に勢力を広げていきます。
島津氏の九州制圧の歴史についてはここでは割愛しますが、戦国時代になるとは前国・豊後国の一部を除く九州の全土を手中にしました。
やがて、豊臣秀吉が天下を取ると九州平定が始まりましたが、島津氏は豊臣秀吉と戦いながらも諸大名の仲介や交渉の結果、本領である薩摩・大隅2か国・日向諸県郡は全所領が安堵されます。
そして、朝鮮の役ではめざましい武勲を上げ、ついに前田氏の81万石に次ぐ61万石の大大名にまで登り詰めます。
その後、慶長5年(1600年)に勃発した関ヶ原の戦いでは、17代目当主であった島津義弘が西軍に味方したものの、島津宗家最高責任者である16代当主島津義久が徳川家康と3年にも及ぶ戦後交渉を行い、全所領安堵を認めさせています。
こうして、島津氏は徳川家康に従い「薩摩藩」として幕藩体制に組み込まれることになります。
薩摩藩と他の藩の政治制度の違い
薩摩藩は、藩が開かれたときから明治維新まで一貫して島津氏が治めており、他の藩とは少々政治制度が異なります。
慶長14年(1609年)、薩摩藩の初代藩主であった島津忠恒は、3,000の軍勢を率いて琉球に出兵し占領して付庸国としました。
これにより、慶長18年(1613年)には奄美群島を琉球に割譲させています。薩摩藩は代官や奉行所などを置き、直轄地としました。
また、島津忠恒は江戸幕府に対し真っ先に江戸藩邸に妻子を留め置くことを宣言し、参勤交代の先駆けを作ったといわれています。
また、薩摩藩は琉球を含めた最高石高は90万石という加賀藩に次ぐ石高をほこっていました。
そのため、幕府に恭順の意を示すために藩庁となった鹿児島城は天守閣などが存在せず、防御上に問題があったといわれています。
その代わり、中世式の山城を各地に残し、113区画をそれぞれ家臣に守らせる外城制度という独特の制度を作りました。
また、近世以前の支配体制も残しており、城外制度のほか農民を数戸ごとに「門」(かど)というグループに分け、門ごとに土地を所有させる「門割」という制度が設けられていました。
なお、薩摩藩の領地の多くがは稲作には適さないシラス台地であったため、表の石高こそ77万石でありましたが、実際の石高は35万石であり、藩が成立した当初から財政には苦しいものがありました。
さらに、幕府は有力藩に対する弱体化政策を取っていたため、薩摩藩は大規模な御手伝普請を頻繁に割り当てられます。
特に宝暦3年(1753年)に割り当てられた木曽三川改修工事(宝暦治水)は多大な出費を強いられ、工事の責任者であった薩摩藩家老平田靱負が、工事の完了後に責任を取って自害するといった悲劇もおこりました。
このように、薩摩藩と幕府の関係は一見すると穏やかで友好なようでいて、水面下では激しい駆け引きがあり、複雑な感情がうずまいていたことが分かります。
幕末までの薩摩藩
薩摩藩というと、明治維新の立役者である島津斉彬が有名ですが、薩摩藩のヨーロッパ文化への強い関心は、8代目藩主島津重豪も同様でした。
初代藩主島津忠恒以来、幕府と薩摩藩はたびたび縁談を結んできましたが、8代目藩主島津重豪も、11代将軍徳川家斉の正室、広大院の父にあたります。
そのため、学問・ヨーロッパ文化に強い関心を寄せても強く咎められることはなく、「蘭癖大名」「学者大名」としても名を馳せることができました。
実際、自ら長崎のオランダ商館に出向いたり、オランダ船に搭乗したりしています。
島津重豪は、安永元年(1771年)には藩校・造士館や武芸稽古場として演武館を設立し、教育の普及に努めます。また、安永2年(1773年)には、明時館(天文館)を設立し、暦学や天文学の研究をはじめました。
安永3年(1774年)には医学院まで設立させ、医療技術の養成にも尽力しました。
これらの学問所は、許可が出れば百姓・町人なども通うことができ、このような開かれた門戸が、幕末に西郷隆盛をはじめとする幕末に活躍する偉人達が育つ土壌となりました。
なお、島津重豪は当時としては長生きの89歳まで存命し、曾孫に当たる島津斉彬とも一時期生活を共にしています。
豪奢な生活を好んだ彼ですが、晩年には財政難解消のために下級武士出身の調所広郷を重用し、薩摩藩の天保改革に取り組みました。
ちなみに、ドイツの医師・博物学者のシーボルトも晩年の島津重豪に謁見しており、「開明的で聡明な君主だ」という記録を残しています。
明治維新と薩摩藩
薩摩藩で最も知名度の高い藩主といえば、11代藩主の島津斉彬です。8代藩主島津重豪の曾孫にあたり、その利発さを非常に愛されました。
- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。