佐賀藩(2/2)明治維新の立役者の1つ
鍋島家の家紋「杏葉紋」
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そんな中で10代目藩主の座に就いた「鍋島直正」は、役人を5分の1に削減するなどで歳出を減らし、磁器・茶・石炭などの産業育成・交易に力を注ぐ藩財政改革を行なったことで藩政改革を成功させます。
さらに、長崎警備の強化を掲げて独自に西洋の軍事技術の導入をはかり、精錬方を設置して反射炉などの科学技術の獲得にも力を入れます。
その結果、佐賀藩アームストロング砲など最新式の西洋式大砲や鉄砲の自藩製造に成功しました。そして、蒸気船や西洋式帆船の基地として三重津海軍所を設置し、蒸気機関や、蒸凌風丸という蒸気船まで完成させました。
この技術は、品川台場建設に大いに役立ち、江戸幕府老中の阿部正弘から信頼を得ます。
同時期、嘉永6年(1853年)、マシュー・ペリーが来航して開国を迫りますが、鍋島直正は
イギリスの親善外交に対して開国論を主張しました。
鍋島直正は藩主を嫡男である鍋島直大に譲った後、関白近衛忠煕に面会し、京都守護職への任命を要請しています。
そして、盟友であった阿部正弘が没した後は、佐幕、尊王、公武合体派のいずれとも均等に距離を置き、藩内で犠牲者を出すことを防ぎました。
このような立ち位置にたった佐賀藩に対し、鳥羽・伏見の戦いの際薩摩藩からは佐賀征伐を主張する声が挙がりましたが、佐賀藩は巧みに立ち回って薩摩藩・長州藩側が勝利に終わって以降は上京して新政府側に汲みしたため、征伐は行なわれませんでした。
なお、佐賀藩の近代西洋兵器は上野彰義隊との戦いから五稜郭の戦いまで新政府軍の主力となり、明治政府成立の後押しをしたのです。
このように、鍋島直正が行なった藩政により佐賀藩は諸藩の中でいち早く近代化に成功し、多くの人材も育ちました。そのため、薩摩藩、長州藩に比べて討幕運動には不熱心であった
にも係わらず、佐賀藩は、薩長土肥の一角を担うこととなったのです。
鍋島直正は、廃藩置県の後明治2年(1869年)に蝦夷開拓総督を命ぜられます。直正自身は蝦夷地へ赴かず、旧藩士島義勇らを開拓御用掛に命じて佐賀藩の藩士も積極的に蝦夷に移住させます。
直正自身は大納言に転任し、満州開拓、オーストラリアでの鉱山開発などを提言しました。
鍋島直正が明治4年(1871年)に病没すると、薩長土肥の中で佐賀藩(肥前)の影響力は急激に低下していきました。
鍋島直正の功績は大変大きく、島義勇、佐野常民、副島種臣、大木喬任、江藤新平、大隈重信と並んで佐賀七賢人の1人に数えられています。
鍋島直正の嫡子で、最後の藩主であった鍋島直大は明治維新の後、佐賀藩知事となりましたが、これを辞して岩倉使節団としてアメリカに留学、一旦帰国した後で今度は弟直虎・直柔とともにイギリスに留学します。帰国後は外務省御用掛となり、明治13年(1880年)駐イタリア王国特命全権公使に任ぜられました。
明治15年(1882年)帰国し、元老院議官、宮中顧問官等らを歴任し、明治天皇・大正天皇の篤い信頼を受けます。
その後、鹿鳴館や上野不忍池の競馬場の運営、外国人居留地や避暑地の整備、鉄道建設、音楽推進など日本の近代化に力を尽しました。
現在の鍋島家
鍋島家の血脈は現在に至るまで存続しており、現当主は15代目の鍋島直晶さんです。直晶さんの妹に当たる鍋島房子さんは、現在、佐賀藩主・侯爵鍋島家の伝来品を扱う歴史博物館「徴古館」の館長を務めています。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。