佐賀藩(1/2)明治維新の立役者の1つ
鍋島家の家紋「杏葉紋」
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佐賀藩は、現在の佐賀県佐賀市(当時は肥前国)にあった藩です。肥前国は元々龍造寺氏が国人から戦国大名まで成り上がり、治めた土地でした。しかし、龍造寺隆信が島津・有馬連合軍に敗れた後は重臣である「鍋島直茂」が実権を握り、鍋島家が藩主として幕末まで治めました。そんな佐賀藩の歴史を紐解いていきましょう。
龍造寺氏と鍋島家の確執
佐賀藩は成立から幕末まで「鍋島家」という1つの家が治めていた藩です。鍋島家といえば「鍋島化け猫騒動」という怪談が大変有名ですが、あれはフィクションです。しかし、初代藩主鍋島勝茂の父、鍋島直茂とその主人筋にあたる龍造寺氏との間には怪談を生み出すほどの深い確執がありました。
龍造寺隆信の死後、その義理弟であり家老でもあった鍋島直茂が隆信の嫡男龍造寺政家の後見人となり実権を握りました。
そのころ、天下の実権を握っていた豊臣秀吉は鍋島家の龍造寺家支配を認め、龍造寺家の家督相続にも口を出してきます。龍造寺政家は天正18年(1590年)に秀吉の名で隠居させられ、その後を嫡男である龍造寺高房が継ぎます。しかし、豊臣秀吉は鍋島直茂にも4万4千石、その子どもである勝茂にも7000石の所領を安堵しています。つまり、佐賀藩はこの時期表向きの支配者は龍造寺家でしたが、実権は鍋島家が握っていたのです。
鍋島直茂、勝茂父子は秀吉亡き後関ヶ原の戦いでは西軍に与すると見せかけて東軍に通じます。その功績を認められて徳川家康に所領を安堵されました。
龍造寺高房は名目上の藩主ではありましたが、その実権は鍋島直茂、勝茂親子ににぎられていたため、高房その立場に絶望し、慶長12年(1607年)3月3日、江戸桜田屋敷で妻を刺殺した後、自殺を図ります。
高房は一命こそ取り留めましたが精神に異常をきたし、間もなく世を去りました。実子の死を知った龍造寺政家は、失意のあまり後を追うようにして世を去りました。
なお、龍造寺高房には、実子と弟がおりましたが龍造寺家の再興は幕府に認められず龍造寺家は消滅しました。
なお、龍造寺高房は江戸から佐賀城下の泰長院へ遺骨を移されて葬られましたが、高房の亡霊が馬に乗って佐賀城下を駆け回るという噂が流れ、鍋島直茂も元和4年(1618年)に81歳の高齢でありながら耳に腫瘍がで苦しみ抜いて死んだため、龍造寺高房の祟りとささやかれたのです。
このような紆余曲折を得て、鍋島直茂の息子、鍋島茂勝が初代藩主となって佐賀藩(鍋島藩)が成立します。
なお、鍋島藩は名目上は35万石以上の大藩でしたが、佐賀藩は35万7千石の大封でありながらその実情は、3支藩(蓮池、小城、鹿島)・鍋島4庶流家(白石、川久保、村田、久保田)と龍造寺4分家(多久、武雄、諫早、須古)という自治領があったので、実質的には6万石程度だったと言われています。
幕末までの佐賀藩
前述したように、佐賀藩は鍋島藩が江戸初期から幕末まで治めました。藩主は11人いますが、その中でも有名なのが二代目藩主の鍋島光茂です。彼の小姓として勤めていた山本常朝が、田代陣基の対談から『葉隠』を生み出しました。
また、幕府に先んじて殉死を禁止したり、対等な立場であったはずの蓮池藩・小城藩・鹿島藩ら三支藩に三家格式を設けたりして鍋島家の佐賀藩支配を強めました。
佐賀藩は佐賀城の焼失や飢饉などたびたび災厄に遭いますが、藩を揺るがすほどの災難とはならず、代を重ねていきます。
肥前佐賀藩8代藩主であった鍋島治茂の時代、財政難が悪化しました。しかし、治茂は松原小路に藩校弘道館を設立したり米筈を発行するなど経済政策も積極的に推進したりして、藩の財政の立て直しに努めます。
さらに、六府方や徒罪方の設置をするなどして藩政を建て直します。この改革が佐賀藩を明治維新での薩長土肥で西南雄藩の一角を占めさせる礎になりました。
幕末の佐賀藩
9代藩主鍋島斉直の時代、イギリス船フェートン号が長崎を襲い、オランダ商館員を拉致して長崎奉行・松平康英を脅迫するフェートン号事件が勃発します。この騒動の責任を幕府は「佐賀藩が長崎警備の兵を減らしたため」と佐賀藩に押しつけました。そのため、佐賀藩は家老数人が切腹をさせられます。さらに、佐賀藩全体に大変な被害をもたらした台風(シーボルト台風)の襲来や江戸藩邸の焼失が重なり、佐賀藩の借金は13万両にも膨れ上がります。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。