丸岡藩(2/2)本多家と有馬家が治める
本多家の家紋「丸に立ち葵」
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6代目藩主の有馬徳純は34才の若さで病死、跡を継いだ有馬温純も27才の若さで死去しますが、海防強化のために砲台を築くなど外国の脅威に備えます。
最後の藩主となった有馬道純は、5代目藩主有馬誉純のように寺社奉行、奏者番、若年寄、老中など幕府の要職を歴任しました。
その一方で朝廷に早々と恭順の意思をしめしたため、幕末の動乱には加わらず静かに明治維新を迎えた後、藩知事になりました。
明治になると子爵に任ぜられます。
明治以降の有馬家
子爵となった有馬家は、最後の藩主有馬道純の息子有馬純文が大正天皇の側近となり、韓国訪問などに同行しています。
また、有馬純文の三女である有馬展子は、日本銀行株式局長や鴻池家理事を勤めた野々村政也に嫁いでいます。
丸岡藩まとめ
丸岡藩は北陸の小藩として天災や飢饉と闘いながら明治を迎えた藩です。
本多家の跡を継いで藩主となった有馬家は短命な藩主が多く、5代目以外目立った痕跡はありません。
その一方で、有馬誉純が残した藩校は明治以降も残り、子女の教育の場となりました。
また、明治以降は天皇の側近を輩出するなど、活躍を見せていました。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。