丸岡藩(1/2)本多家と有馬家が治める
本多家の家紋「丸に立ち葵」
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丸岡藩は、本多家と有馬家の2つによって幕末まで修められました。
丸岡藩とはどのような藩だったのか、その歴史を紐解いていきましょう。
本多家が丸岡藩を成立させるまで
丸岡城は、柴田勝家の姉の息子(甥)である柴田勝豊が築城し、初代藩主になりました。
しかし、賤ヶ岳の戦い後に子どもを残さずに病死してしまいます。
城主不在になった城には、青山宗勝とその子どもが城主として入りますが、慶長5年(1600年)、関ヶ原の戦いで西軍に与したため、その罰として改易されてしまいました。
またもや藩主不在となった丸岡城には、家康の次男である結城秀康の重臣・今村盛次が城主として2万5千石で入ります。
しかし、彼も、慶長16年(1611年)の福井藩重臣による内紛に巻き込まれ、流罪に処せられてしまいました。
その後、家康の重臣で「鬼作左」の異名をとっていた本多重次の子ども、本多成重が4万石の譜代大名として移封されます。
丸岡藩の歴史はこの本多家からスタートしました。ちなみに、本多重次が「一筆啓上~」で有名な手紙を書いた人物であり、「おせん泣かすな」と記された「おせん」が初代藩主である本多成重です。
本多家の歴史
本多成重は、藩の基礎を固めるべく城下町の建設や治水工事などに力を尽しました。
丸岡藩の基礎を整えたのは、本多成重と言えます。
本多成重とその跡を継いだ二代目藩主本多重能は当時としては長生きで、成重は72歳、本多重能は大坂冬の陣に参戦などもし、62歳まで生きています。
本多重昭は父や祖父より早く43歳でなくなりますが、検知や寺社政策に力を尽します。
4代目藩主となった本多重益は、信仰心の熱い人ではありましたが政治的には無能であり、藩の政治は家臣団に任せて本人は酒色に溺れていた、と記録されています。
そのため、家臣団同士で藩の実権を握る争いが勃発しました。
特に、本多重修を後継ぎに立てて本多重益を隠居させようとした太田又八や自分が実権を握ろうとした本多織部との争いはすさまじく、ついには幕府の耳に入ることとなり、本多重益は改易になりました。
これで、本多家の歴史は終わります。
なお、本多重益は6代将軍徳川家宣が即位すると恩赦が出て許され、2000石の旗本寄合として復帰しました。
有馬家の歴史
本多家の後に丸岡藩を任されたのは、キリシタン大名として有名な日向延岡藩藩主有馬晴信のひ孫にあたる有馬清純です。
有馬清純が修めていた日向延岡藩は島原の乱や逃散一揆など、何かと不穏なことが起こりがちの藩でした。
有馬清純は、逃散一揆の責任を取って越後糸魚川、さらに丸岡藩へと国替えをされます。
越後糸魚川にはお城がなかったので、無城城主からの再出世ということになりますが、現実は大変厳しく、有馬清純及びその子どもである有馬一準が藩主になった頃は、度重なる天候不順や洪水による不作が続き、一揆が起きるほど藩政は困窮していました。
有馬家で二代目の藩主となった有馬一準の頃には、銀札という名の藩札を発行し、家臣の給料を一部借り上げても効果は薄く、一準は失意のうちに62歳の生涯を閉じました。
3代目藩主の有馬 孝純は父の政策を引き継ぎつつ銅山の開発に乗り出しますが失敗します。
4代目藩主の有馬 孝純は26才の若さで死去してしまい、有馬家の統治は前途多難でした。
しかし、その跡を継いだ5代目藩主の有馬誉純は大変有能な人物で、幕府の奏者番から寺社奉行へと出世を重ねつつ、丸岡藩では藩政改革を行います。
財政難を解消するために年貢を上げたところ一揆が起こりますが、百姓側の要求をのみ、年貢を元の値に下げて庄屋制度の廃止します。
さらに、藩校をつくり武士の子弟の教育に努め、「郷会所」という農民が年貢を納められないときに商人が肩代わりする助け合いの制度を設け、貧困対策にも乗り出しました。
その結果、丸岡藩は財政難を脱却します。
丸岡藩の中興の祖と言われている有能な大名は『国乗遺聞』や『藤原有馬世譜』など藩史・地誌の編纂にも力を入れて68才の生涯を閉じました。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。