丸亀藩(1/2)3つの家が治める
京極家の家紋「平四つ目結」
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丸亀藩は、生駒正親が豊臣秀吉より讃岐国12万6千200石を拝領したことから、歴史が始まります。厳密に言えば生駒家が改易となって山崎家が丸亀に封じられたときから「丸亀藩」が成立しましたが、現在では生駒家が治めた高松藩の歴史も丸亀藩の一部と考えられています。そんな丸亀藩の歴史を紐解いていきましょう。
生駒家の治世
生駒正親は織田信長や豊臣秀吉に仕えた戦国武将です。讃岐国12万6千200石を拝領し、高松と丸亀にそれぞれ城を作りました。このとき、高松城を本城としたため、「高松藩」とも呼ばれています。
生駒正親は嫡男の生駒一正とともに、丸亀と高松に城下町も築いて治世の下地を作ります。なお、関ヶ原の合戦の際、正親は西軍に、一正は東軍について家督を守りました。
正親・一正親子は丸亀藩の基礎を築いたといっていいでしょう。
しかし、一正の孫に当たる生駒高俊は幼くして4代目藩主の座についたため、外祖父・藤堂高虎の後見を受けます。
成長してからも藩政を顧みなかったので、家臣団の間で藩の主導権をめぐって内紛が起こります。これが「生駒騒動」と呼ばれるお家騒動です。
内紛の事実を知った幕府は寛永17年(1640年)に生駒高俊の責任を問い、領地を没収して出羽国由利郡に転封という名の流罪にします。
これにより、生駒家は改易となり高松城は一旦幕府直轄になりました。
山崎家の治世
1641年(寛永18年)山崎家治が肥後富岡((現熊本県天草郡)から5万石で移封され、丸亀城を本城にする丸亀藩が成立しました。
丸亀城は一国一城令の発布により生駒正俊が廃城としましたが、建物は残っていたので、改築して本城としたのです。
このとき、幕府は山崎家治の参勤交代を免除し、城の改築費用まで与えています。
山崎家は3代で世継ぎがなく途絶えてしまいますが、初代藩主山崎家治、2代目藩主、山崎俊家は2代にわたって丸亀城を改築し、現在の姿に近いものに作り替えました。なお、2代目藩主山崎都俊家は35才、跡を継いだ3代目藩主の山崎治頼はわずか8才で死去したため、山崎家は後継ぎがなく断絶しました。
京極家の治世
万治元年(1658年)山崎家と近江源氏の同族である京極高和が播磨龍野藩より、移封されて丸亀藩を治めるようになります。以後、京極家が明治を迎えるまで丸亀藩の藩主になりました。
京極高和は現存する丸亀城の天守を完成させたほか、江戸藩邸に広く信仰されていた金比羅大権現(現・金比羅宮)を勧進し、日を決めて江戸庶民にも参拝を許しました。なお、この神社は現在も「虎ノ門金刀比羅宮」として東京都港区に存在して地域の人々に信仰されています。
なお、金刀比羅宮へ詣でる参道は丸亀藩内を通っていたため、参拝客を相手とした観光業は明治になるまで丸亀藩の貴重な財源になりました。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。