伊予松山藩(2/2)三つの家が治める

伊予松山藩

加藤家の家紋「蛇の目」

記事カテゴリ
藩史
藩名
伊予松山藩(1600年〜1871年)
所属
愛媛県
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松山城

松山城

現存天守
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その一方で生来の病弱で実子がなく、薩摩藩主・島津斉宣の十一男勝之進を養子に取りました。
この勝之進が、落雷で焼失した伊予松山城の天守を復元させた12代目藩主、松平勝善となります。

13代目藩主、松平勝成の時代になると世は幕末を迎えます。松平勝成は、血縁上は第15代将軍・徳川慶喜の従兄弟にあたるため、長州藩や土佐藩といった新政府軍との戦争では先鋒を任され、松山藩は苦境に立たされました。
実際、元治元年(1864年)、第一次長州征討では幕府軍の一番手となり勝利を収め、第二次長州征伐でも部分的な勝利を収めましたが、幕府側の足並みが揃わず、実質的に敗北してしまいました。

また、このときに伊予松山藩が占拠した徴収藩領の大島で、藩士が島民に乱暴狼藉を働いたため、長州藩の恨みを買うことになったようです。

慶応3年(1867年)に起こった鳥羽・伏見の戦いでは大阪梅田に三〇〇の兵士を配置したため、朝廷より蟄居を命じられ、藩内に土佐藩の兵士が侵入します。しかし、恭順の意思を示したため、大きな混乱は起こらず城内で無用な争いも起こることはありませんでした。

同年の大政奉還後、松平姓を徳川家に返上し、菅原姓久松氏に復帰します。その後、藩知事などにつき、81才まで東京で暮らします。
松平勝成人は茶人としても知られており、在京の華族、知名士等と設立した輪番茶事グループ「和敬会」の会員でもありました。

なお、松平家は16代藩主まで続いたことになっていますが、13,15代藩主は松平勝成、14代、16代藩主は勝成の養子松平定昭が就いたので、実質、松平勝成が最後の領主となっています。
ちなみに松平定昭は、28才の若さで鳥羽・伏見の戦いで幕府軍に味方したことを咎められて謹慎蟄居中に亡くなったため、目立った実績はありません。

まとめ

伊予松山藩は三つの家が幕末まで治めました。
温暖な気候で災害が少なかったせいか、天災や飢饉も長い藩史の中で、1〜2回しかありません。
財政危機にも陥りましたが、藩札の発行で回復する程度のものでした。
多くの藩が幕末に近づく度に財政が苦しくなり、破産寸前の藩も珍しくない中、非常に恵まれているといえます。
しかし、藩主は短命な者が多く、半数が50代になる前に命を落としています。
その一方、80代まで生きる藩主もいました。
このほか、俳諧や茶といった文化も隆盛しており、それが明治に正岡子規を初めとする文豪、俳人を輩出する下地になったのです。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。
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