松本藩(2/2)6つの家が治める

松本藩

石川家の家紋「六曜」

記事カテゴリ
藩史
藩名
松本藩(1590年〜1871年)
所属
長野県
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松本城

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しかも、水野家の3代目城主忠直その子、4代目城主忠周は諸芸の名人を召し抱えるなど、風俗や文化の発展に力を尽します。その結果、松本は江戸や京都のように文化的に発展しましたが、飢饉の頻発により財政は圧迫されます。
ついに、貞享3年(1686)に大規模な百姓一揆が起こります。年代にならって貞享騒動、もしくは首謀者の名を取って「加助騒動」ともよばれました。なお、当時の城主は3代目の忠直です。

「加助騒動」は全国的には無名の騒動ですが、松本地域では義民として語り継がれ、加助神社などもあります。また、処刑される際、加助が松本城をにらんだため、天守が傾いたという伝説も生まれました。
なお、松本城天守が傾いたのは、明治時代のことで相同とは関係がありません。
そして、5代目藩主水野忠幹が25才の若さで病死するとその弟水野忠恒が6代目城主になりました。

しかし彼は、粗暴で享楽的な正確であったそうで、享保10年(1725)八代将軍吉宗に拝謁した後、江戸城中の松之大廊下で長府藩の世子毛利師就とすれ違った際、いきなり抜刀して切りつけるという事件を起こします。
これにより、水野忠恒は乱心したとして所領没収・改易となり、水野家の支配は終わりました。

再び戸田松平家の統治へ

水野家が改易された後、松本藩は一時期幕府直轄地になりますが、志摩鳥羽藩主の松平光慈が、享保10年に松本藩城主になります。以後、幕末まで9代、142年間にわたって戸田松平家が再松本を治めます。

しかし、松平光慈が城主になった2年後、享保12年(1727)に本丸御殿が火災で焼失してしまいました。このときすでに財政難に陥っていた戸田松平家に本丸御殿を再建する力はなかったといわれています。以後、藩政は二の丸御殿で行われました。
水野光慈の時代、すでに松本藩の借財は1万8000両にまでに膨れ上がっていました。歴代城主たちはその借財を何とかしようと倹約や財政再建に奔走しますが、いずれもうまくいきませんでした。

幕末になると、元治元年(1864)に天狗党の乱が起こります。松本藩は諏訪藩と協力して中山道の和田峠で交戦しますが、敗北しました。また、長州征討にも出兵していますが、戦闘には参加しなかったようです。この2つの戦争により、松本藩の財政はますます圧迫しました。

そして、慶応4年(1868)の戊辰戦争には、直前まで幕府につくか明治新政府につくか藩の意見がまとまりませんでしたが、直前になって勤王を選択し3万両を献上して帰順しました。
最後の藩主であった松平光則は、明治2年(1869)に版籍奉還上を行い、翌年に藩知事となります。

明治以降の松本藩

幕末まで松本を治め続けてきた戸田松平家は、明治維新後に名字を戸田と改めます。華族に列せられ、爵位は貴族でした。
松平光則の長男、戸田康泰はオーストリア公使館在勤員外書記生として、外交に携わっていたこともありました。
また、松平光則の孫に当たる戸田 康英は宮内省に入り、上皇陛下の傅育官を務めた後、東宮侍従長を務めます。昭和天皇の外遊に何度も同行したり、玉音放送の録音時には自重として側に控えていたりしたなど、まさに昭和という時代の生き証人でした。

また、松本藩の藩庁として機能し続けていた松本城は、明治時代になっても取り壊されることなく、何度も修繕を加え、現存12天守の1つとして国宝に指定されています。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。
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