弘前藩(2/2)津軽家が治め続ける
津軽家の家紋「津軽牡丹」
- 関係する城
その跡を継いだ7代目藩主津軽信寧は、6代目藩主の志を継ごうとしますが、天明の飢饉など大規模な災害が起こり、逆に幕府からの借財を増やす結果となりました。
8代目藩主の津軽信明は、飢饉続きで荒れ切った田畑を復活させようと家臣たちの一部を藩農藩士にしようとします。最初は強い反発がありましたが、やがて多くの藩士がそれを受け入れ、田畑は回復していきます。また、倹約令・出費の大幅削減・義倉設置による食糧備蓄・など藩政の立て直しや飢饉に備える政策も同時に行いました。さらに、藩校の開設と教育の普及、藩法の制定なども同時に行っており、弘前藩の財政は立てなおされます。しかし、津軽信明は30歳の若さで急死し、9代目藩主を養子の津軽寧親が継ぎます。
津軽寧親が藩主のとき、盛岡藩よりも石高が上になったことで家格も上になります。これにより、面白くないと感じた盛岡藩の関係者が、参勤交代を終え、江戸から弘前に帰る途中であった津軽寧親を暗殺しようとする「相馬事件」が起こりました。
盛岡藩の藩主である南部家と津軽家は安土桃山時代からの因縁がありました。そのため、相馬事件は「みちのく忠臣蔵」とも呼ばれ、芝居や読み物などに大いに取り上げられ、一大ブームになったということです。なお、暗殺は失敗し、首謀者は打ち首になっています。
なお、津軽寧親と10代目藩主である津軽信順は、幕政へ関与したいという野望がありました。そのため、親子2代にわたって身分の高い娘と結婚し、門閥関係を強化しようとします。しかし、その政策はうまくいかず、婚姻のために各方面にばらまいた金銭の負担が、再び藩の財政を悪化させました。
そのしりぬぐいをしたのが、11代目藩主の津軽順承です。彼は名君といわれた津軽信明にならい、新田開発や荒れてしまった田畑の回復、さらに、洋式軍備による軍備増強、大砲鋳造や海防警備の強化、医学館や蘭学堂の設置による学問の奨励などをおこないました。
幕末以降の弘前藩
12代目藩主の座に就いた津軽承昭は、幕末、会津藩をはじめとする東北の半の多くが旧幕府軍につく中、新政府軍に味方します。一時期は、奥羽越列藩同盟に参加したものの、やはり新政府軍に寝返り、箱館戦争などで功績をあげました。そのため、廃藩置県後に伯爵に任じられ、第十五国立銀行取締役となりました。また、弘前城を敷地ごと借り受けて弘前公園として市民に開放し、城の建物の保護に勤めました。
まとめ
弘前藩は、津軽氏が江戸時代初期から幕末まで治めました。通常、このような一つの家が治める藩は安定した治世がしかれますが、弘前藩はお家騒動が頻発しました。また、天災も起こりやすく、歴代の藩主たちはその対応に苦労させられました。しかし、何代かごとに名君が生まれたため、弘前藩は持ちこたえられたとも言えます。なお、津軽氏の血統は現在の皇室に残っており、常陸宮正仁親王妃華子殿下がその末裔です。
弘前藩の記事を読みなおす
- 関係する城
- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。