弘前藩(1/2)津軽家が治め続ける
津軽家の家紋「津軽牡丹」
- 関係する城
弘前藩は、現在の青森県西部に位置していた藩です。支藩に黒石藩をもち、津軽藩が江戸時代を通じてこの藩を治め続けました。ここでは、弘前藩の歴史を詳しく紹介していきます。
弘前藩の誕生
弘前藩は、大浦為信(津軽為信)を祖とする津軽氏によって江戸時代を通して治め続けられた藩です。江戸時代、多くの藩では大名が定期的に移封され、一つの藩がいくつもの大名家によって治められるのが普通でした。しかし、弘前藩は弘前城を建築した津軽氏が幕末まで一貫して弘前藩を治め続けました。
津軽為信は、元々盛岡藩主でもある南部氏の被官でしたが、戦国時代末期に独立化をすすめ、豊臣秀吉の小田原討伐の際に南部家より先に秀吉に謁見し、津軽地方の領地を安泰する朱印状をもらい、大名となります。
その後、関ヶ原の戦いでは徳川家康率いる東軍に就いたため、2000石を増加され、4万7千石で弘前藩を開きます。
初代藩主である津軽為信は弘前藩を開いてすぐの慶長8年(1604年)、京都の地で客死してしまいます。その跡を継いだのは二代藩主の津軽信枚ですが、彼が城主につくまえに、長男信建の遺児・熊千代を擁立する家臣団との対立が起きました。これを津軽騒動と言います。
この騒動により、津軽藩は一時取り潰しの危機に陥りますが、津軽信牧が江戸幕府に対して親睦策を取ったことで争いに勝利して城主の座につきました。津軽信牧は父親が建築途中であった弘前城の建築を受け継ぐと同時に、熊千代を擁立した家臣団を静粛します。
また、信牧は徳川家康の側近である天海僧正に帰依しており、僧正の推薦を受けて徳川家康の養女である満天姫を妻に迎え、幕府との結びつきを強くします。その後、家康の死後、福島正則の改易騒動に巻きこまれて危うく津軽から信州の地へ移封されそうになりました。しかし、天海僧正の強い働きかけによって難を逃れます。
その後、津軽信牧は新田開発や街道の整備を行ない、青森港の港湾施設および街を構築し、蝦夷から上方、江戸との交易ルートを整備して津軽藩の基礎を築きました。
津軽藩主とお家騒動
津軽信牧の死後、跡を継いだのは若干13才の津軽信義でした。藩主が若輩であることから、側近が力を持つようになります。特に、幼少の頃からそば仕えを務めた船橋半左衛門親子の権力は増大し、旧家臣団との対立が起こります。その結果、おきたのが徳川家光と津軽信義の上洛に合わせて津軽藩の家臣が江戸藩邸に立てこもった「船橋騒動」と 信義を廃嫡させ、その弟の津軽信英を擁立しようとする「正保の騒動」です。この2つのお家騒動は寛永11年(1634年)と正保4年(1647年)という10年間の間に起こっています。さいわい、改易など重い処分にはなりませんでしたが、藩内が落ち着かなかったことは確かなようです。しかし、政治には才能があった津軽信義は、治水工事、津軽新田の開発、尾太鉱山の開鉱、牧場の開設など次々に産業を興し、藩の財政を安定させました。その反面、暴君で酒乱な一面もあり、37才という若さで死亡しています。
後を継いだ嫡子津軽信政は幼いころから聡明で、山鹿素行・吉川惟足師事して儒学・兵学・神学を学びました。自ら藩政を取るようになると津軽新田の開発・治水工事・山林制度の整備など、積極的に藩を豊かにしようとします。また、製糸業や紙漉の発展・育成にも力を入れました。このほか、西津軽の新田開墾の灌漑用水源として日本最大のため池、津軽冨士見湖を製造します。この積極的な政策により、弘前藩は最盛期を迎えます。
しかし、晩年は藩内に大飢饉が発生し、3万人を超える死者を出しました。また、下野国烏山藩主・那須資徳の相続争いに巻き込まれ、幕府から叱責も受けています。
悪化する財政
五代藩主津軽信寿、六代藩主津軽信著の間、弘前藩では天災が相次ぎます。凶作・松前大島噴火による津波・数度の洪水・疫病の大流行などで藩の財政はみるみるうちに悪化していきました。また、五代藩主津軽信寿は風雅趣味があり、個人的な道楽で藩の財政を圧迫していたので、六代藩主津軽信著はそのしりぬぐいに苦労します。彼が藩主であったころ、江戸では徳川吉宗が享保の改革を行っており、津軽信寿はそれに倣って弘前藩でも藩政改革を行います。しかし、津軽信寿が26歳の若さで夭折してしまったので、改革は志半ばで終わりました。
- 関係する城
- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。