米沢藩(2/2)伊達氏・上杉氏が治める
上杉家の家紋「上杉笹」
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上杉治憲は、産業に明るい竹俣当綱や財政に明るい莅戸善政などを重用し財政の立て直しに着手します。また、自ら率先して質素倹約に努めました。江戸屋敷での生活費を従来の4分の1にまで減らし、奥女中も10人以下にするなど思い切った倹約は家臣達の反発を招きましたが、上杉治憲は考えを改めることはありませんでした。そのため、上杉家の重臣達が改革中止を求める「七家騒動」などを起こしましたが、結局は失敗に終わります。上杉治憲は単に質素倹約に努めるだけでなく、閉鎖された学問所を藩校・興譲館として再開し、身分を問わずに学べる場所を作って優秀な人材を集める努力を惜しみませんでした。このほか、米以外の産業の発展にも尽力し、労を執るために漆の木を100万本移植するなど壮大な計画を立ち上げています。なお、漆の木の移植計画は結局失敗におわりました。
天明5年(1785年)に35才の若さで藩主の座を前藩主上杉重定の実子上杉治広に譲って隠居しますが、死去するまで後継藩主を後見し、藩政を実質指導しつづけました。なお、上杉治憲は上杉鷹山という名前の方がよく知られていますが、その名を名乗ったのは、享和2年(1802年)、剃髪してからです。
また、家督を上杉治広に譲る際に申し渡した伝国の辞は、大政奉還まで上杉の家訓として代々の藩主へ伝えられました。
幕末の米沢藩
上杉治憲の努力もあって、破綻寸前だった米沢藩の財政は11代藩主上杉斉定のときに見事建て直され、借金が完済されました。彼が藩主であった頃の天保の大飢饉が発生しますが、上杉斉定は上杉治憲の治世を見習って自分は粥を食べて領民に米を与え、ひとりの餓死者も出さなかったという偉業を成し遂げます。また、上杉斉定は歴代の藩主が行ってきた家臣から給与を借り上げて藩の財政の一部に当てることを廃止し、初めて家臣に手当金を与えたと伝えられています。
上杉斉定は天保10年(1839年)に52才で死去し、その跡を子息の上杉斉憲が継ぎます。
上杉斉憲は、藩政改革に努め、軍隊の洋式訓練方法を取り入れるなどして大成功を収めます。その甲斐あって幕府から3万石の加増を受けました。これは、米沢藩始まって以来のことで、上杉斉憲は上杉治憲以来の名君と称えられます。
しかし、慶応4年(1868年)、戊辰戦争が起きると米沢藩は繋がりの深い会津藩と共に新政府の討伐の対象になりました。上杉斉憲は最初こそ新政府に味方しようとしますが、恭順の意思を示す書状を新政府に握りつぶされたため、激怒して仙台藩と共に奥羽越列藩同盟の盟主となります。米沢藩は猛攻により一時は新政府軍から新潟港を奪い返しましたが、やがて旗色が悪くなると真っ先に投降し、庄内藩の軍へ兵を向けました。そのため、奥羽越列藩同盟からは「裏切り者」と罵られることになります。明治維新後、米沢藩は新政府軍に逆らったことを咎められ、14万石に削減されました。上杉斉憲はその後家督を上杉茂憲に譲って隠居します。
最後の藩主となった上杉茂憲は、廃藩置県後にイギリスに留学し、帰国後に沖縄県令となります。実直な人柄と仕事に精励に取り組む様が高く評価されました。明治16年(1883年)には元老院議官となり、翌年には伯爵となります。明治29年(1896年)に米沢に移住し、養蚕製糸織物の改良や産業の発展に力を尽しました。私財をなげうって沖縄や米沢で人材を育成して産業をもり立てたため内情は豊かでは無かったようですが、現在も米沢城址には、上杉茂憲の住まいである上杉伯爵邸(鶴鳴館)が残されています。
米沢藩のまとめ
米沢藩は西軍に与した上杉景勝を祖とし、120万石を30万石に減石されるという逆境の中で藩政が始まります。財政は困窮する一方でしたが、上杉治憲の改革によりなんとか藩の材を立てなおし、幕末まで藩を維持しました。なお、上杉茂憲以降も上杉家は存続し、現在は上杉邦憲氏が17代目当主を務めています。なお、邦憲氏は宇宙工学博士であり、「はやぶさ」の開発にも携わりました。現在、邦憲氏は退官しましたが、杉氏関連の講演会で講師などを務めているそうです。ちなみに毘沙門天管弦楽団などで指揮者として活躍していた音楽家の上杉隆治氏は弟にあたります。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。