米沢藩(1/2)伊達氏・上杉氏が治める
上杉家の家紋「上杉笹」
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米沢藩は東北で最も知名度の高い藩であり、伊達氏・上杉氏など大河ドラマにもよく登場する大名達が藩を治めました。江戸時代、藩を治める大名は数年おきに変わることが珍しくありませんが、米沢藩は一貫して上杉氏によって治められました。
ここでは、上杉藩の歴史を紐解いていきましょう。
戦国時代の米沢の治世
室町半ばから戦国時代末期まで、米沢の地を治めていたのは伊達氏でした。伊達家が米沢の地を治めだしたのは天文17年(1548年)とかなり早いのですが、その後天文の乱をはじめ、複数の家内騒動があったため、米沢以外への勢力拡大が遅れます。ようやく伊達家が米沢以外に勢力を拡大しはじめたのは、天正12年(1584年)に伊達政宗が第17代伊達家藩主になってからでした。伊達政宗は破竹の勢いで勢力を拡大させ、二本松畠山家、蘆名家・相馬家など奥州の有力大名を次々と征服します。そして天正17年(1589年)には摺上原の戦いで蘆名家に大勝して黒川城(若松城)を奪い取って本拠地とし、さらに二階堂家・石黒家・岩代家などを滅ぼして奥州の覇者となりました。
しかし、天正18年(1590年)の小田原征伐で伊達政宗は豊臣秀吉に臣従したことにより、領地を大幅に縮小されてしまいます。さらに、黒川城は蒲生氏郷に明け渡し、豊臣秀吉による検知も許しました。豊臣秀吉の検知は厳しく、奥州の各地でそれに反発した百姓一揆が起こります。伊達政宗は蒲生氏郷と協力してこれを平定しますが、豊臣秀吉は一気を扇動したのが伊達政宗であることと決めつけ、さらに蒲生氏郷を暗殺したと言いがかりに近い罪を着せて伊達家の領地を没収しました。その結果、伊達家は大崎・葛西の領地を治めるだけとなり、米沢の支配は蒲生氏に委ねられます。
しかし、蒲生氏郷が没すると嫡子の蒲生秀行が13歳で後を継ぎました。幼い主君では国がまとまらず、重臣達の諍いが起き、結果的に蒲生氏は18万石に石高を減らされて会津は越後より移封された上杉景勝が治めることになります。
米沢城は上杉景勝の重臣、直江兼続が城主となりました。
江戸時代の米沢藩
豊臣秀吉の死後、慶長5年(1600年)に関ヶ原の合戦が起こると、上杉景勝は西軍につきます。このときに直江兼続が徳川家康に送った「直江状」は現在でも有名です。関ヶ原の戦いは徳川家康が率いる東軍が圧倒的な勝利を収め、敗北した上杉景勝は重臣の本庄繁長と直江兼続を伏見城まで赴かせて家康に直接謝罪をします。その結果、上杉家は存続を許されましたが持っていた所領のうち会津など90万石を没収され、出羽米沢30万石だけが手元に残されます。この決定により、上杉家の米沢藩支配体制が確立されました。この頃の米沢は城主である直江兼続もほとんど詰めていなかったため、城下町も人口が数百人しかいない小規模なものだったといいます。それなのに、藩主の上杉景勝をはじめ数千人の家臣団や商人・町人・職人が米沢の城下町に入ってきたため、町は大層混乱しました。城も改築を加えましたが、家臣全てを入れる余裕は無く、上杉景勝は城下町の郊外に下級藩士達だけの町を作りました。
このように、上杉景勝と直江兼続は米沢城の改築、城下町の整備と藩政を調えることに尽力します。元和5年(1619年)には直江兼続が、その4年後の元和9年には上杉景勝が死去し、その跡を上杉定勝が継ぎます。
断絶の危機と石高削減
2代目藩主の上杉定勝・その子上杉綱勝の治世は大きな混乱はありませんでした。上杉定勝は検地を行い年貢制度を定めたほか、キリシタンの取締や質素倹約を家臣に徹底させるなど藩政を調えていきました。米沢城下町の大火や寛永19年(1642年)の飢饉などがありましたが、藩政を揺るがすほどではありませんでした。しかし、上杉綱勝が子息を残すことなく26才の若さで急死すると上杉家は断絶の危機を迎えます。幸い、上杉網勝の正室の父に当たる会津藩主保科正之の力添えにより、網勝の妹富子と高家の吉良義央の間に生まれていた2才の上杉綱憲を末期養子にすることができました。これにより、上杉家は断絶を免れますが、幕府により罰として信夫郡と伊達郡にあった12万石、屋代郷(現山形県高畠町)3万石が削減されます。つまり、石高が半分になってしまいました。
なお、上杉綱憲の生母富子が嫁いだ吉良家とは赤穂浪士の討ち入りで大石内蔵助らに討たれた吉良上野介が連なる家です。赤穂浪士の討ち入りが起こったのは、上杉綱憲41才の頃ですが、その後綱憲は生母富子を上杉へと引き取っています。また、上杉綱憲は教学振興や風俗統制、役職整備、歴史編纂といった文治政治を敷きますが、そのお陰で財政が逼迫しました。また、生家である吉良家へたびたび援助を行っており、これもまた上杉家の財政を逼迫させる原因になったと言われています。綱憲は元禄17年(1704年)死去しますが、そのころには米沢藩の財政はかなり逼迫しています。
上杉綱憲の跡を継いだのは庶子として生まれた上杉吉憲です。藩主となってすぐに江戸幕府に普請を命じられるなど重い負担を課せられました。そのため、藩の財政はますます厳しくなり、ついには参勤交代の費用もままならないほどになります。上杉綱憲は39才で死去し、跡を継いだ上杉宗憲も22才の若さで死去します。上杉宗憲は後継ぎがいなかったので、弟の上杉宗房が新たに藩主の座に就きますが、彼もまた29才の若さで亡くなりました。その間、藩の財政は傾く一方であり、有効な策もないまま時だけが過ぎていきます。また、年貢の未納も深刻になっていました。
上杉宗房の跡を継いだ上杉重定は上杉吉憲の子息で、上杉宗憲や上杉宗房の弟にあたります。上杉重定は長生きこそしましたが、家臣同士の騒乱がおこったり大凶作によって領民が困窮したことによる打ち壊しが起こったりしました。藩政はますます窮乏しますが、上杉重定はろくな政策もおこなわず、家臣に政治を丸投げしていたと伝えられています。上杉重定は病を理由に明和4年(1767年)に隠居をしますが、隠居後も住居を複数回建て替えるなどして、藩の財政に打撃を与え続けました。
上杉治憲の治世
上杉重定の跡を継いだのは上杉家の中興の祖として名高い上杉治憲(鷹山)です。明和4年(1767年)に家督を継いだときには、借財が20万両(現在の貨幣にして約150億〜200億)あり、15万石の石高に対し、家臣が6千人もいるなど財政が破綻している状態でした。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。