犬山藩(2/2)慶応4年にようやく独立
成瀬家の家紋「丸に片喰」
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徳川斉温は十一代将軍徳川家斉の実子であったため、将軍の覚えもめでたく、お褒めの言葉や馬具などの褒美を受け取っています。しかし、尾張藩からの独立はついに叶いませんでした。跡を継いだ八代目城主成瀬正住も独立の気概が強く、敬道館という家臣のための学校を作り、成瀬家の忠臣を育てようと力を注ぎます。さらに、十代目尾張藩主徳川斉朝の許可なく江戸を立って犬山城に入るなど家老としてあるまじき振る舞いもあったようです。しかしその一方、成瀬正住は斉温、斉荘、慶臧、慶勝という4人の藩主に仕え、尾張藩の藩政を支えました。そのため、幕府からの信頼も篤く家督相続の際も徳川斉温の死後、徳川斉荘を新藩主に迎えるにあたり、調整役を務めたと記録にのこっています。ちなみに、このとき、隠居をしていた徳川斉朝には一切の相談をしなかったそうですから、藩主と重臣の仲は良くなかったようです。
しかし、やはり独立は叶いませんでした。
犬山藩誕生
成瀬家が正式に「大名」として認められたのは、最後の城主にして最初の藩主となった成瀬正肥の時代です。成瀬正肥は、成瀬正住の娘を娶り婿養子となって家督を継ぎます。時代が幕末を迎え幕府も混乱していました。安政5年(1858年)に尾張藩14代藩主・徳川慶勝が将軍の世継ぎ問題やアメリカ・イギリスとの条約勅許問題に巻きこまれて大老「井伊直弼」から謹慎と蟄居を命じられると、連帯責任で一時期尾張藩の藩政から遠ざけられました。しかし、後に復権し、文久3年(1863年)には徳川慶勝とともに京都へ入り、十二代将軍徳川家茂を補佐して朝廷との調整役を務めています。また、徳川慶勝の子ども徳川義宜が最後の藩主の座に就くと、藩政の中心人物にも返り咲きました。その後、明治元年(1868年)1月3日の鳥羽・伏見の戦いでは慶勝に従って上京していた成瀬正肥は、二条城を接収などに関わり、ついに独立した大名として認められ、犬山藩が誕生しました。この藩の寿命は明治4年(1871年)の廃藩置県までの僅か4年でありましたが、成瀬正肥はたいそう喜び、明治2年(1869年)には藩知事に任命され、藩知事を辞したあとは華族になり、明治33年(1900年)には犬山銀行を創立します。
そして、廃城となった犬山城を修復する条件で無償譲渡され、市民の協力を経て修復し、以来成瀬家は犬山城の持ち主になりました。
現在の成瀬家
成瀬家は明治以降も代を重ね、平成16年(2004年)までは犬山城の持ち主として犬山市名誉市民として城の管理や調査の責任者となっていました。2008年最後の個人所有者であった12代目当主成瀬正俊さんが亡くなった際には、犬山市でお別れの会にあたる市葬が開かれ、300人以上の市民が「殿様」との別れを惜しんだということです。現在、成瀬家は13代目当主の成瀬淳子さんを理事長として財団法人犬山城白帝文庫を創設し、変わらず犬山城の管理者としての職務に励んでいます。成瀬淳子さんはメディアにもたびたび登場し、犬山城を後世に残すための活動をしています。
- まとめ
- 犬山藩の歴史をまとめました。大名家同様の家格を持つ成瀬家が城主を務めながら、明治元年まで藩として独立できなかった特殊な藩でしたが、その血脈は現在も残り、日本最古級の犬山城の守り手となっています。大名家になりたいと強く願い、尽力した家だからこそ、犬山城の天守も現在まで江戸時代初期の姿のまま残せたかもしれません。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。