犬山藩(1/2)慶応4年にようやく独立
成瀬家の家紋「丸に片喰」
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犬山藩は慶応4年(1868年)に明治政府により、ようやく独立した藩として認められた特殊な藩です。江戸時代は尾張徳川家の附家老の一家であった成瀬家が代々藩主を務めました。そんな犬山藩の歴史をひもといていきましょう。
戦国時代、数々の合戦の舞台となった犬山城
犬山城は天文6年(1537年)に織田信長の叔父である織田信康によって改修・創建された城です。現在の愛知県と岐阜県の中間にあり、木曽川を背にした要所ということで、織田信長と豊臣秀吉の身内や重臣が城主を務めました。小牧・長久手の戦いや関ヶ原の合戦など、歴史に残る戦いの舞台にもなっています。徳川家康が江戸幕府を開くと、犬山城は一度尾張清洲藩のものになり、徳川家康の四男・松平忠吉が城主として清洲城に入り、付家老、小笠原吉次に犬山領と犬山城が与えられます。
付家老というのは、正式名称を御附家老といい、将軍家から枝分かれした大名家に将軍が直々に任命した家老たちを指します。通常は筆頭家老を指しました。なお、尾張徳川家・紀州徳川家・水戸徳川家の御三家の筆頭附家老5家が特に有名です。
犬山藩の初代城主であった平岩親吉は徳川16神将の1人として徳川家康の重臣として活躍した武将です。
慶長12年(1607年)、徳川義直が尾張藩主に任ぜられると附家老として尾張に下りました。
石高は12万3千石であり、ちょっとした大名家並です。なお、御付家老は御三家の家臣ではありますが、将軍に拝謁できるなど数々の特権を持っていました。
平岩親吉は初代城主として城下町の整備などを行いましたが、嫡子が生まれず養子も早世したので、平岩家は一代で断絶します。
成瀬家の支配
平岩家が断絶した後、代わりに御附家老として尾張に配属されたのが、成瀬正成です。小牧・長久手で初陣を飾った正成は徳川家康に請われて御附家老に任じられます。石高は3万5千石で、平岩家には劣りますが小藩の大名と同等です。以来、成瀬家は幕末まで犬山城の城主を務め、平成16年(2004年)まで犬山城を所有することになりました。
成瀬家は大名と同等の石高を持ち、将軍に拝謁する特権もありました。実際、二代目城主である成瀬正虎は、尾張藩二代藩主徳川光友に付き従って江戸城に上洛した際、共に三代将軍徳川家光に拝謁しています。
そのため、成瀬家は尾張藩の筆頭家老として藩政を手助けしつつ犬山城の城下町を治めます。
尾張藩と成瀬家
尾張藩は徳川御三家の1つであり、筆頭でもあります。名古屋城を居城とし、時に幕府の政策にも深く関わりました。
特に、七代将軍徳川家継が世継ぎを設けずに没したとき、紀州徳川家の徳川吉宗と将軍の座を競った徳川継友や、その弟で幕府が出した倹約令に公然と逆らった徳川宗春は有名です。
徳川宗春は、京都の九条家の財政を支えるなど朝廷の結びつきを大切にし、幕府の倹約令にことごとく反発して尾張の自由経済を発展させました。そのため、幕府は徳川宗春を厳しく叱責して態度を改めよと命じますが宗春は従いません。この幕府と尾張徳川家の対立が家臣達にも混乱をもたらします。成瀬家はその当時、5代目城主成瀬正泰が筆頭家老の職についていましたが、同じく御附家老であった竹腰正武が徳川宗春を蟄居させようとする動きを見せたことに激しく反発します。徳川宗春は結局藩主の座を降ろされて蟄居に追い込まれますが、その際、成瀬正泰は「幕府と一戦交えるべし」と強硬論を唱えたと伝えられています。
しかし、徳川宗春の政策により尾張藩は大幅な赤字に転じており、宗春の蟄居後竹腰正武が倹約令を打ち出した時は意を唱えることはありませんでした。
また、成瀬家は犬山城の城主として尾張藩の防衛を固め、軍備の要として武芸をよくする家でもありました。成瀬家3代目当主成瀬正親や6代目当主成瀬正典は馬術に優れており、特に正典は尾張藩主に馬を献上するほど馬術好きであったと伝えられています。
大名への野望
前述したように、成瀬家は3万5千石を与えられ、始祖は徳川の重臣です。大名になれる資格は十分にありました。実際に、家臣団の中でも別格で成瀬家独自の家臣も100名以上抱えています。そのため、七代城主成瀬正壽は尾張藩から独立し譜代大名になろうと江戸城に足繁く登城し、9才で家督を継いだ尾張藩11代目藩主の徳川斉温の教育を熱心に行います。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。