松江藩(2/2)越前系松平家が治める
松平家の家紋「三つ葵」
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一説によると、松平治郷は財政を一気に建て直したことで幕府に軽快されることを恐れ、あえて道楽者を演じていたとも言われています。しかし、彼が再度悪化させた財政は再び建て直されることはありませんでした。
なお、松平治郷の逸話はこれだけではなく、伝説の力士雷電為右衛門を武士として召し抱えたり、部屋の天井をガラス張りにしてそこに金魚を泳がせて眺めるのを趣味としていたりといったことが伝わっています。ちなみに、このとき品種改良されて生まれた金魚が「イズモナンキン」と言われており、現在は島根県の天然記念物に指定されています。
松平治郷は文化3年(1806年)に家督を長男である家松平斉恒に譲り、没する、文政元年(1818年)まで趣味人としての生を全うしました。
松平斉恒は父と同じ趣味人でしたが、短命で文政5年(1822年)に32歳で死去してしまいます。その跡を継いだ9代目藩主松平斉斎は、天保の飢饉や大水、さらに城下町の火事など天災が続き、藩の状態が極度に悪化したにもかかわらず、幕府に12万両もの献金を行ったり趣味の鷹狩りに没頭したりするなどして、藩の財政を再び破産寸前まで悪化させたため強制的に隠居させられました。
その跡を継いだ10代目藩主の松平定安は、文武を奨励して西洋学校を創立します。また、ときは幕末を迎えており、松平定安は佐幕派として大坂や京都の警備を務めていました。文久2年(1862年)はアメリカから軍艦「八雲丸」を購入しています。一藩が軍艦を購入した例は、薩摩・長州をのぞけば松江藩だけです。そして、文久3年(1863年)には軍備増強を図るため、隠岐国で17歳から50歳の男子を徴兵して農兵を作ろうとしました。しかし、これに農民が大反発し、ついに慶応4年(1868年)に民衆3,000人が蜂起して反乱を起こします。(隠岐騒動)これにより、隠岐を統治していた代官が民衆の手によって追放され、隠岐は一時期松江藩から独立して自治政府を造りました。この隠岐騒動を松江藩は武力で鎮圧しようとしましたが、長州・薩摩の両藩から反対に遭い、鳥取藩と新政府の取りなしによってようやく自治政府が開かれます。そのため、隠岐は明治2年、廃藩置県より2年早く「隠岐県」として独立が認められました。
なお、松平定安はその後、大政奉還・王政復古後も新政府・幕府のどちらにつくか態度を曖昧なままにしています。第二次長州征伐に破れた石見国浜田藩主・松平武聰をかくまったかと思うと、慶応4年(1868年)の戊辰戦争では新政府に与するなどしたため、新政府の不興を買いました。その後、松平定安は結局曖昧な態度のまま明治4年の廃藩置県を迎え、松江藩藩知事から免官されています。その後は長男に家督を譲ったり再度家督に返り咲いたりしたものの、48歳で死去しました。
その後の松平家
明治時代の松平家は華族に列せられました。松平定安の三男、松平直亮は明治27年(1894年)に北海道上川郡鷹栖村の山林1700ヘクタールの貸付をしてもらい、富山や香川から入植者を連れて松平農園として開墾を開始します。その後、14年で貸付地1337ヘクタールの開拓を終了し、住民に全農地を分配します。松平直亮の二女が蓮池藩鍋島家当主鍋島直柔と結婚し、その孫が21代目尾張徳川家当主徳川義宣となりました。
松江藩まとめ
松江藩は越前系松平家が江戸時代初期から幕末まで治めていましたが、天災が相次ぎ、藩の財政は常に火の車であったようです。藩の財政はどこでも時代が下るにつれて苦しくなっていったものですが、「藩が滅亡するかも」とまで言われたのは松江藩だけです。その一方で、七代藩主松平治郷のような趣味人も誕生し、現在にも伝わる松江の文化を花開かせました。なお、松平家は現在も存続しており、母親を通じて尾張徳川家の現在の当主にもその血が流れ続けています。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。