会津藩(2/2)上杉家・会津松平家が治める

会津藩

松平家の家紋「三つ葵」

記事カテゴリ
藩史
藩名
会津藩(1601年〜1871年)
所属
福島県
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鶴ヶ城

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松平容保は、万延元年(1860年)に桜田門外の変が起こった後、幕府と水戸藩との調停役を務め、14代将軍徳川家茂の後ろ盾を受けて無血で事態を収束させます。文久2年(1862年)、松平容保が28歳の時、京都守護職に任じられます。この人事を容保は再三辞退したそうですが、幕府の使者が江戸屋敷に日参し、対に会津松平家初代保科正之が定めた家訓まで持ち出し、説得に当たったと伝わっています。

松平容保は、新撰組の前身である浪士組を預かり、壬生浪士組を作った人物として小説・漫画・ドラマなどによく登場します。しかし、それ以外にも孝明天皇に何度も面会し、朝廷と幕府を繋ぐ橋渡しの役も務めました。このほか、会津藩士を江戸に上洛させて徳川家茂の身辺警護なども行わせています。

松平容保は「国を一つのまとめることが第一」という信念で外交方針を固め、幕府と朝廷の意見統一に腐心します。しかし、その真意は幕府に伝わらず、意見は一向に聞いてもらえませんでした。しだいに、江戸に詰めていた会津藩士の不満も高まり、松平容保は何度も京都守護職を辞職したいと幕府に願い出ます。ですが、その希望がかなえられることはありませんでした。

松平容保の奮闘も虚しく元治元年に池田屋事件が発生し、長州藩が挙兵します。京都から追放されていた長州藩兵が松平容保の排除を目的として京都市中に武装してなだれ込み、市街戦も発生しました。(蛤御門の戦い)

こうしたかずかすの困難にも何とか耐えてきた松平容保でしたが、慶応2年(1867年)に親交が厚かった孝明天皇が崩御すると、ついに公武合体政策を放棄し、慶応3年(1868年に)京都守護職を辞任、会津に帰国します。慶応4年(1868年)戊辰戦争の始まりとなる鳥羽・伏見の戦いが勃発。
松平容保は幕府軍として会津藩士・桑名藩士を出陣させますが、幕府軍が敗退します。

この敗北により、会津・桑名を朝敵とする勅命が下りました。これに対抗し、東北諸藩34藩からなる奥羽越列藩同盟が結成され、明治政府軍と対決する姿勢が示されます。

明治元年(1868年)に始まった会津戦争は、白河口の戦い・二本松の戦いといずれも明治政府軍が勝利し、会津藩は若松城下への撤退を余儀なくされます。そして、一か月にわたる鶴ヶ崎城の籠城戦のあと、ついに無血開城をしたのでした。なお、会津戦争では多くの少年兵が犠牲になり、中でも二本松少年隊と白虎隊の悲劇は今でも広く知られています。また、会津藩士も多数の戦死者をだし、籠城戦の際に「足手まといにならぬように」と自害した藩士の妻や子どもは239名にも登ります。この、会津籠城戦の有様は大河ドラマ「八重の桜」でも描かれました。

なお、会津藩士が徹底抗戦の構えを見せたのに対し、会津の農民達の反応は酷く冷淡だったといわれています。これは、会津藩が明治政府と戦う資金を賄うために農民達に重税を課したためでした。農民達にとって会津藩そのものが憎悪の対象であり、明治政府を支持するものも少なくなかったといいます。会津藩が明治政府軍に降伏し、無血開城をした後、会津藩は一時的に政治的な空白が生じました。その時を狙い、農民達は検地帳・年貢帳・分限帳の破棄、選挙制の導入、専売制の廃止、年貢の減免を求めて一揆を起こします。(会津世直し一揆・ヤーヤー一揆)

明治政府はこれを積極的に鎮圧せず、農民達は新しく選任された村役人に多くの要求をのませました。
また、松平容保が会津から江戸へ送られる際、農民達は護送の行列を見ても跪くことはせず、野良仕事をして無関心を貫いたという記録が残っています。

松平容保は無血開城後、江戸に護送されて池田邸預かりになります。その後、明治2年(1689年)に実子松平容大が誕生、家名相続が許され3万石が支給されました。しかし、実際に松平容大が藩主の座に就くことはなく、松平容保が最後の藩主になります。松平容保は和歌山藩や青森の斗南藩預かりなどを経て、東京で蟄居を命じられますがその生活は困窮し、仕官した旧会津藩士が生活を支えていたといいます。

その後、明治13年(1880年)にようやく日光東照宮宮司兼上野東照宮に任じられ、給与を得ることができるようになりました。
明治26年(1893年)肺炎で死去します。享年56歳でした。

その後の会津松平家

会津松平家は、その後も華族(子爵家)として家名が存続し、松平容保の六男で外交官の松平恆雄の娘、(松平容保のひ孫に当たる)松平節子が秩父宮妃の妃となります(秩父宮妃勢津子)。しかし、秩父宮は死去するまで子どもに恵まれなかったため、皇室に会津松平家の血筋が残ることはありませんでした。なお、秩父宮は昭和天皇の弟にあたり、スポーツの振興にちからをいれたことから「スポーツの宮様」として国民から人気を集めました。現在も「秩父宮杯」などでその名が残っています。秩父宮妃勢津子も、長年にわたり結核予防総裁を務め、結核の予防活動に尽力を尽しました。

一方、会津松平家は未だに家名が存続しており、日本テレビのプロデユーサーを務めた松平保久さんは、第14代目当主にあたります。
福島県会津市で毎年開催される会津祭では、会津藩公行列が行われており、2019年に会津藩主松平容保役を務めたのは、松平保久さんの長男、松平親保さんでした。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。