桑名藩(2/2)複数の松平家が治める

桑名藩

松平家の家紋「六曜」

記事カテゴリ
藩史
藩名
桑名藩(1601年〜1871年)
所属
三重県
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松平定永からスタートした久松松平家の統治は、松平定和・松平定猷と続いていきますが、桑名藩は水害や江戸藩邸の火災、さらに幕府から命じられた普請などによって財政が逼迫していきます。大坂や桑名の商人からの借財で急場を凌ぎますが、さらに追い打ちをかけるように大塩平八郎の乱に触発された生田万の乱により、魚沼・刈羽・三島・蒲原といった飛び地の領地を治める陣屋が襲撃されるなど、凶事が続きました。これに加えて、世は幕末の動乱期に突入し、桑名藩は幕府から房総沿岸の警備や京都警備などを任命され、さらに財政は逼迫していきます。この財政難は結局明治を迎えるまで根本的な解決をすることがありませんでした。

桑名藩と幕末の動乱

松平定猷の後を継いだ松平定敬は、美濃高須藩松平家出で初姫の婿養子でした。定敬は、御尾張藩主徳川慶勝・徳川茂徳・会津藩主松平容保・石見浜田藩主松平武成の実弟にあたります。さらに14代将軍徳川家茂と同い年ということもあり、彼からの信頼も厚く、藩主を務めながら、元治元年(1864年)には京都所司代に命じられます。定敬は最初年齢が若すぎることを理由に断ろうとしますが、実兄の松平容保が京都守護職に付いたこともあって断り切れず、兄弟で京都の治安を守ることになります。

ふたりが京都所司代と京都守護職に就いている間、池田屋事件・禁門の変・長州征討・天狗党の乱などが起こりました。将軍も徳川家茂から最後の将軍、徳川慶喜に代替わりします。

幕府側の代表者として事態の鎮圧した2人は、薩摩・長州の両藩から激しく恨まれることになります。さらに、幕府側とも第二回長州征伐の対応を巡って険悪になります。この頃、幕府は、会津藩・桑名藩と協力して薩摩・長州藩と戦っていましたが、会津・幕府側と桑名藩とで対立が深まり、そこに幕府と友好的であった孝明天皇の死が追い打ちをかけました。桑名藩は京都政界での立場を失い、将軍家慶も京都政界との対立を深めて行きます。
このあたりの政治情勢は多くの小説やドラマに描かれており、有名ですね。

その結果、旧幕府軍と新政府軍との戦いとなった鳥羽・伏見の戦いでは旧幕府軍の主力を会津・桑名の藩兵が務めることになります。

鳥羽・伏見の戦いでは兵力において旧幕府軍が圧倒的に有利でしたが、徳川慶喜をはじめとする上層部の対応が優柔不断であり、兵士達は実力を発揮することなく敗戦しました。なお、松平定敬は大阪城に兵を置き、さらに桑名城で徹底抗戦する構えでしたが、徳川慶喜に命じられてやむなく江戸城までの撤退に同行します。

そのため、城主を欠いた桑名藩は大混乱になりました。桑名藩の重臣たちは「開城して全藩士が江戸の定敬に合流して今後を決定する」ことを希望しましたが、下級藩士たちはそれを不服とし、松平定猷の実子、松平定教を新しい藩主として新政府軍に恭順する意思を示します。

議論は二転三転しましたが、最終的に松平定教が鳥羽伏見の戦いに参加し、桑名藩に帰還した兵を連れて東海道鎮撫総督・橋本実梁の下に出頭しました。こうして桑名城は無血開城しましたが、新政府軍はその証しとして辰巳櫓を焼き払ったのです。

江戸に戻った松平定敬は、兄の容保と共に新政府軍と徹底抗戦をする構えを見せましたが、徳川慶喜はそれを拒否します。松平定敬は将軍と袂を分かち、桑名藩の飛び地であった柏崎に拠点を移して新政府軍と戦いを続けます。長岡戦争や鯨波戦争、さらに会津戦争でも松平定敬率いる桑名軍は奮戦をしますが、寒河江での戦いを最後に降伏しました。しかし、松平定敬だけはさらに榎本武揚をたよって函館まで落ち延び、新撰組の土方歳三らと合流します。定敬は最後まで新政府軍と戦う気でしたが、桑名藩の家老「酒井孫八郎」らは、桑名藩存続のために彼を新政府軍へ出頭させようとします。松平定敬は激しく抵抗し、最後は上海まで逃亡しようとしましたが、路銀がつきてついに新政府軍へ出頭しました。明治2年(1869年)のことです。

桑名藩はその後、新藩主となった松平定教が新政府に恭順の意思を示したことにより、11万石から6万石に減らされたものの取り潰しは免れます。松平定敬はその後東京で取り調べを受けるも謹慎処分となり、その後渡米、さらに西南戦争にも桑名軍を率いて出兵するなどし、明治41年に死去しています。なお、最後の藩主である松平定教も藩知事の座を明治4年に退いた後、明治7年に松平定敬と共に渡米、帰国後は明治13年(1880年)に外務省の書記官となりました。その後、子爵に任ぜられ明治21年(1888年)には式部官として宮中に務めますが、翌年43才で死去しました。

明治以降の桑名藩

明治4年に廃藩置県が実施されて桑名藩がなくなっても、桑名出身の藩士たちは長州・薩摩出身の人々から敵視され続け、肩身の狭い思いをしたと伝わっています。そのため、西南戦争では400名以上の兵士が出兵して新政府への恭順を示しました。明治末期からは港町という地の利を活かして軍需産業の活発化させ重工業が大いに栄えています。現在でも桑名のとなり、四日市市は工業都市として日本の重工業の中心地となっています。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。
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