彦根藩(2/2)譜代大名の筆頭井伊家が治める
井伊家の家紋「丸に橘」
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その一方で、勉学や趣味に没頭し、知識や教養を身につけています。35才になったとき、第14代藩主井伊直亮(直中三男)の養嗣子となっていた直元が病死したことで、後継ぎになりました。
彦根藩藩主となった井伊直弼は、人事の刷新に着手して自分と近しい臣下を重用します。また、江戸から藩主として彦根に初めて入った際には、領内の村々を視察しました。以降、領内巡見は直弼在国時の恒例となります。
嘉永6年(1853年)に黒船が来航し、安政5年(1858年)に井伊直弼は大老に就任します。日米通商条約に調印するまでの流れは非常に複雑なためここでは割愛しますが、幕末を舞台にした多くの小説・漫画・ドラマ・映画などで詳しく描かれていますので、興味がある方は、ぜひ読んでみてください。井伊直弼の強硬な政策は薩摩藩・長州藩・水戸藩を忠臣とした尊王攘夷派の強い反感を買います。そのような反対派を根絶するために井伊直弼が取った策が安政の大獄です。井伊直弼は自分に反対する公家や同僚達を次々と隠居・落飾・免職などに追い込んでいきました。
これに憤った尊王攘夷派により、井伊直弼は万延元年(1860年)に暗殺されます。この事件は「桜田門外の変」として有名ですが、「桜田門」とは井伊家の藩邸があった場所であり、その外で起こった暗殺事件とうことでこの名がつきました。
井伊直弼の死は厳重に伏され、家督相続も届出があってから1か月後に漸く許されるという有様でした。しかも、次男・井伊直憲が家督を継いだ後、彦根藩は井伊直弼が誤った政治を行ったという罪で10万石減封されています。彼の死によって江戸幕府は滅亡への道を早めていきました。
なお、小説やドラマでは悪役的な描かれ方をされがちな井伊直弼ですが、領民に情の篤い良い領主であったという一面もあります。
幕末〜明治時代の彦根藩
井伊直弼の後を継いだ次男、井伊直憲は16代目にして彦根藩最後の藩主になります。数え年13才(満12才)という幼さで家督を継ぎました。父の死後幕府は井伊直弼の専横・圧政を糾弾します。井伊直憲は父の政策の責任を取る形で彦根藩での父の腹心を処刑しましたが、幕府との関係はしばらく改善しませんでした。しかし、池田屋事件や禁門の変での功により減封された10万石のうち3万石を回復します。長州征伐までは旧幕府軍に属していましたが、鳥羽・伏見の戦いでは新政府軍に与し、近藤勇捕縛などにも関わっています。
明治2年、彦根藩主から彦根藩知事に転身し、2年後の明治4年にはアメリカやイギリスへ遊学しました。なお、随員に、専修大学の創設者となった相馬永胤がいます。余談ですが、専修大学と並ぶ関東の有名私立大学の1つ、中央大学の創設者である増島六一郎は彦根藩出身です。増島は明治3年に上京し、井伊直憲の後でイギリスに留学して弁護士の資格を取得しています。
帰国後は知事を罷免され、明治17年(1884年)に華族令により伯爵に任ぜられました。その後、皇室の所有地となった彦根城を変換されています。なお、直憲の孫である井伊直愛は、昭和28年(1958年)から36年にわたって彦根市長を務め「殿様市長」という愛称で親しまれました。市長であったときに井伊直弼の時代からわだかまりがあった水戸市と親善都市盟約を結んでいます。
現在も井伊家は存続しており、現在の当主は代18代目の井伊岳夫氏です。彦根市の市役所に勤務しており、彦根市の博物館館長をしています。
まとめ
今回は、彦根藩の歴史を歴代の藩主に沿ってひもといてみました。井伊家は譜代大名の筆頭として幕府と非常に結びつきが強く、歴代藩主の多くが幕府の大老を務めました。そのため、彦根藩の藩政はほとんどが家臣が行ったとされています。それでも、藩政が安定していたのは天災が少なかったことと、藩の財政が窮地に陥ることがなかったからです。また、ひとつの家が国替えをせずにひとつの藩を治め続けてきたのも幸いしました。井伊家は大老を何人も輩出した反面、藩主が早世することも多く、目立った功績を残した藩主は数少ないです。それでも、現在まで家が続き現当主も彦根の文化財を守る職務に就き、彦根の歴史を後世に伝えています。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。