彦根藩(1/2)譜代大名の筆頭井伊家が治める

彦根藩

井伊家の家紋「丸に橘」

記事カテゴリ
藩史
藩名
彦根藩(1600年〜1871年)
所属
滋賀県
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彦根藩は、徳川四天王の1人である井伊直政を祖とする井伊家によって治められていた藩です。幕府は、大名達を定期的に国替えさせましたが、彦根藩は一貫して井伊家が治め続けました。ここでは、彦根藩の歴史を紹介していきます。

井伊直政が彦根藩繁栄の基礎を築く

彦根藩を治める井伊家は家康の忠臣として知られる井伊直政を素にしています。彦根城の歴史でお伝えしたように、慶長5年(1600年)に起こった関ヶ原の合戦の功績により、井伊直政は徳川家康より石田三成の領地であった彦根を賜ります。井伊直政は最初、石田三成が残した沢山城に入りましたが、石田家が再興したように見えることから城を嫌い、新しい城を築こうとします。しかし、その願いは叶わず関ヶ原の翌年に42才で死去します。井伊直政は心優しく思いやりのある人物で、彦根藩が発展する基礎を作りました。なお、井伊直政の死後、長男の井伊直継が幼少で後を継ぎますが、病弱のため大坂夏の陣に参加できず、上野安中藩を彦根藩の分藩として、その藩主につきます。彦根藩は異母兄弟の異母弟の井伊直孝が継ぎました。そのため、井伊直継を二代目の藩主と数えないこともあります。

譜代大名の筆頭に経つ

井伊直政が徳川家康の重臣であったように、その子井伊直孝も徳川の忠臣として活躍します。大坂冬の陣では井伊家の総大将を務め、大坂夏の陣では長宗我部盛親を破り、淀君と豊臣秀頼母子を自殺に追い込みました。この功績を称えられ、彦根藩は5万石を加増されます。その後、井伊直孝は徳川秀忠より徳川家光の後見人に任じられました。この後見職が「大老」の始まりであり、井伊直孝は初代の大老ということになります。家光の後見人になったことで、彦根藩は30万石に加増されました。これは、譜代大名の中では最も多い石高であり、これによって井伊家は譜代大名の筆頭となります。井伊直孝の子どもたちも江戸で育ち、徳川家と強い絆が結ばれました。井伊直孝は70才で没するまで幕政を主導しました。なお、井伊直孝の末子で家督を継いだ3代目藩主井伊直澄も大老に就任しています。以後、井伊家は多くの幕府の重役を輩出することになります。

病弱な藩主達

井伊直孝の後を継いだのは、四男の井伊直興です。井伊直興は、父と同じように大老を務めましたが、子どもが全て早世するという悲劇に見舞われています。井伊直興は4代目藩主を務めた後、6代目将軍徳川家宣の下で大老に任命されました。彦根城の藩主は、自身の子どもである直道・直恒が継ぎます。しかし、直通も直恒も病弱であり、直通は22才、直恒は18才で病死します。直恒にいたっては、藩主になって僅か50日でなくなってしまいました。そのため、井伊直興は4代藩主の座を退いた後、7代藩主に名前を直治と改めて着任します。藩政では、家中法度を定め、家臣に対して厳しく統制をしくほか、琵琶湖にあった松原港・長曾根港を改築するなど土木工事を熱心に行いました。現在も名園として知られている玄宮園を増援したのも、井伊直興です。この大胆な藩政により、井伊直興は井伊家の中興の祖とされています。また、幕政にも深く関わり、元禄13年(1700年)に一度大老を辞任した後、正徳元年(1711年)に再び大老の座に就きます。大老職についていたときは、7代将軍徳川家継の後継者問題や、江島・生島事件にも対処しました。歴史の表舞台に名前が上がったことはありませんが、歴史に残る数々の事件に幕府の責任者として関わった人物と言えるでしょう。なお、彼の後を十三男である井伊直惟が継ぎますが、やはり病弱であり、9代将軍徳川家重の加冠の役を務めた翌年、37才で死去しました。
こうしてみると、井伊家は大老を何人も輩出した名家でありながら、病弱な藩主が多かったことがわかります。

彦根藩の内情

前述したように、彦根藩を治めていた井伊家は幕政に深く関わってきました。歴代の藩主の中には大老を務めるものも多く、江戸に詰めっぱなしだったので藩政は臣下が担うことが多かったようです。しかし、彦根は天災にもほとんど会うことなく、家臣団も団結していたため、目立った一揆や財政危機などは起こっていません。東北を中心に多くの餓死者を出した天明の大飢饉のときも、彦根藩は領内各所に施粥場が設けられて藩の蔵から米が配られたため、餓死者が1人も出なかったということです。幕末になるに従い、多くの藩が財政的に困窮したり新しい産業を始めたりしていますが、彦根藩は比較的裕福だったようです。なお、天保13年(1810年)に近江天保一揆という大規模な百姓一揆が起こっていますが、主に彦根藩以外の村や町の農民が蜂起しています。そのため、彦根藩では茶道や能楽などの文化を嗜む武士が多く、安政の大獄の中心人物であった井伊直弼も茶道を極めた風流人でした。

歴史の表舞台に立った大老 井伊直弼

彦根藩主にして、井伊家で最も有名な人物と言えば15代目藩主の井伊直弼です。井伊直弼は彦根藩主としてより、開国派の大老として日米修好通商条約に調印し、日本の開国・近代化を断行した大老として名前を知られています。井伊直弼は、第13代藩主井伊直中の十四男として生まれました。直中が隠居後に生まれた庶子であり、通常ならば幕府の要職どころか、藩主の座にもつけない立場だったのです。実際、井伊直弼は彦根城ではなく三の丸の屋敷に住み、「埋木舎(うもれぎのや)」と名付けた邸宅で、35才まで過ごしています。埋木というのは、花も咲かず実も結ばない木のことで、自らの境遇を皮肉ったものです。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。
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