加賀藩(2/2)外様の名門前田家が治める

加賀藩

前田家の家紋「加賀前田梅鉢」

記事カテゴリ
藩史
藩名
加賀藩(1600年〜1869年)
所属
石川県
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前田吉徳の財政改革は、前田八家の出である前田直躬を筆頭とした藩内の保守派たちの反発を招きました。前田吉徳の死後、大槻伝蔵は失脚し、越中五箇山に配流になります。前田吉徳の後を継いだ前田宗辰は藩主の座に就いてわずか1年半後に病死してしまいました。その後を継いだのは異母弟の前田重煕です。この前田重煕とその母浄珠院が毒殺未遂されたことが、加賀騒動の始まりです。調査の結果、毒殺の実行犯は奥女中の「浅尾」という人物でしたが、彼女に毒を入れるように命じたのが、前田吉徳の側室だった真如院ということが分かります。さらに、真如院の居室から大槻伝蔵からの手紙が見つかり、これが不義密通の証拠として取り上げられました。真如院が捕えられたことを知った大槻伝蔵は配流先で自害し、奥女中浅尾も殺害されます。真如院とその子前田利和は幽閉されていましたが、真如院が自らを殺してくれるように依頼し、それが実行されています。

この事件は、真如院が自らの子どもである前田利和を藩主の座につけようと大槻伝蔵と結託して起こした事件と言われています。しかし、真如院は最後まで毒殺を認めず、大槻伝蔵も厳しい監視下の元、密かに手紙を出すのは困難でした。この騒動の後、金沢の城下町では、大槻伝蔵が前田吉徳も手にかけたという謎の「実録本」などが数多く出回りましたが、現在は、保守派の前田直躬が、大槻伝蔵派を一掃するためにこの騒動をでっち上げたのではないか、という説が有力です。歌舞伎の『加々見山廓写本』・『加賀見山再岩藤』などは加賀騒動を舞台にしたもので、現在も上演が続けられています。

相次ぐ藩主の交代と金沢城焼失

加賀騒動の余波は、8代藩主、9代藩主の時代にまで尾を引きます。8代藩主前田重靖は、19歳で病没、その後を異母弟の前田重教が継ぎます。前田重教は、もともと他家の養子でありましたが、8代藩主急死により慌てて家督を継ぎます。そのころ、加賀藩の財政は一層厳しくなっていました。さらに、宝暦9年(1759年)4月10日、金沢に大火が起こり金沢の城下町1万5千戸に加え、金沢城も焼失してしまいます。加賀藩の財政は逼迫していたことから、幕府から金5万両を借りて急場をしのぎ、金沢城を再建しました。その後を継いだ10代藩主前田治脩は、学問を好み、寛政4年(1792年)、藩校明倫堂と経武館を兼六園の隣に創設しています。なお、10代藩主前田治脩は、6代藩主前田吉徳の10番目の男子で、到底家督を継げる立場にないことから、17歳で得度して出家していました。しかし、藩主の早世が相次ぎ、急遽還俗して藩主となったのです。加賀騒動がいかに加賀藩に大きな傷跡を残したかが察せられるエピソードです。

傾き続ける財政

11代藩主前田斉広は、10代藩主の後を継いだのち、農民をはじめとする臣民の生活を案定させる経済政策を行いましたが、いずれも挫折しました。その一方で、金沢城の二の丸が火災で焼失、領地の水害などで出費がかさみ、米の収穫高は減少し続けます。ついに100万石の石高を持ちながら、米の収穫高が50万石にも満たない年も出るようになりました。12代藩主前田斉泰も同様に藩政改革に取り組みますが、ペリー来航が来航するなど、世の中の激変により尊皇攘夷派の武士たちと開国派の武士達の争いが藩内で起こり、前田斉泰は尊皇攘夷派の武士たちを、城代家老の本多政均と共に弾圧していきます。
また、前田斉泰は加賀藩を薩摩・長州藩同様に国政に関わらせようとしますが、結局うまくいきませんでした。

明治時代と加賀藩

加賀藩最後の藩主となったのは、13代目の前田慶寧です。前田慶寧は、父である前田斉泰と対立し、ついに「幕命に背き御所の警備を放棄したとして」金沢で謹慎を申しつけられてしまいます。慶応元年(1865年)に謹慎を解かれ、慶応2年(1866年)4月4日、斉泰から家督を譲られますが実権はありませんでした。その後、鳥羽・伏見の戦いが勃発すると、王政復古宣言を「薩州家奸臣共」の陰謀とし「内府様江御協力」するためとして出兵を決意しますが、戦いが僅か3日で終結した上、朝廷からこの進軍を「佐幕之国論」であるとして厳しく問いただされ、慌てて軍を引き返すという失態を演じました。その後、加賀藩は勤王で藩論を統一しますが、目立った活躍はなく明治を迎えます。明治2年(1869年)6月に金沢藩知事となり、明治4年(1871年)の廃藩置県により、藩知事の任を解かれ東京に上京しますが、すぐに結核により病没しました。

まとめ
前田家は外様大名でありながら、徳川将軍家と婚姻関係を結び御三家・御三卿につぐ名家の扱いを受けました。しかし、時代が下るにつれて藩の財政の悪化に苦しみ、なんどか改革を行いましたが、いずれも失敗に終わっています。幕末も薩摩藩・長州藩の活躍に比べればぱっとせず、12代、13代藩主のどちらも藩の平安を保つのに手一杯という印象です。それでも、加賀百万石の輝きは今なお私たちを魅了してやみません。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。
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