上田藩(1/2)真田信繁の兄、真田信之から始まる

上田藩

松平家の家紋「五三の桐」

記事カテゴリ
藩史
藩名
上田藩(1616年〜1871年)
所属
長野県
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上田城

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上田藩は「日本一の兵」と呼ばれた真田信繁の兄、真田信之を始祖とした藩です。真田氏・仙石氏・松代氏という3つの家が明治まで上田藩を治めました。ここでは、上田藩の歴史を紐解いていきましょう。

日本一の兵の兄、上田藩の始祖真田信之

真田信之は、永禄9年(1566年)真田昌行の長男として生まれます。幼少期は武田家の人質として過ごしますが、織田信長により武田家が滅ぼされると同じく武田家の人質になっていた母とともに武田家を逃げ出します。

慶長5年(1600年)に関ヶ原の戦いが起こると、父真田昌行と弟信繁が西軍についたのに対し、徳川の重臣本田忠勝の娘である小松姫を妻にした信之は東軍につきました。その結果、信之は徳川家の与力大名になり、昌幸の旧領に加え3万石を加増されて9万5,000石となります。上田城は破壊されていたので、沼田城に入って治世を行いました。信之が上田藩の藩主になったころ、第二次上田合戦や浅間山の噴火により領地は荒れ果てていましたが、信之は城下町の整備・堰・用水の開削・年貢の減免など様々な政策を行って藩を立て直そうとします。上田城の歴史で述べたように、真田信之は再三徳川家に上田城の再建を願い出ますが、ついにかないませんでした。信之は元和8年(1622年)に、信濃松代に13万石で加増移封され、松代の地で93歳の生涯を閉じます。

上田城を再建した仙石家

仙石家は、真田信之が松代藩に移封された後で、信濃小諸藩から移ってきた家です。当時の藩主は仙石忠政です。仙石家は豊臣家の家臣でしたが三男であった忠政は関ヶ原の戦いで東軍につきます。その功をたたえられて従五位下・兵部大輔に叙位・任官しています。仙石忠政は、大阪夏の陣における天王寺・岡山の戦いで真田信繁、毛利勝永ら豊臣軍と交戦し、11もの首級をあげました。その武勲によって上田藩に加増移封されたとも伝えられています。仙石忠政は、徳川家康によって徹底して破壊された上田城を再建しつつ、真田信之の後を引き継いで新田開発や産業の推進に勤めました。また、兵農分離をすすめて領内を8つの組に分けて各村に庄屋を置くなど支配体制を強化したといわれています。なお、上田藩への移封は仙石忠政自身が望んだためと言われており、真田信之は抗議のために上田藩関係の書類を燃やしてしまったという逸話が残っています。(真偽不明)

仙石忠政は寛文9年(1669年)に隠居し、長男の子供である仙石政明が三代目の藩主となりました。しかし、正明は幼少だったため、藩の実権は続けて忠政が握ります。藩主就任の際、政明の弟である仙石正勝に2,000石を分与したために、上田藩は5万8,000石となりました。15歳の時に祖父の仙石忠政が亡くなり、家臣の補佐を受けながら藩の運営を行いますが、藩の財政が行き詰ったため延宝3年(1675年)には上米・倹約令などを出しています。
宝永3年(1706年)上田藩から出石藩へ移封されたことで仙石家の上田統治は終わりを告げました。

明治まで上田藩を治めた藤井松平家伊賀守流

藤井松平家というのは、松平長親の五男・利長を祖とする松平氏の庶流であり、十八松平の一つです。仙石政明が出雲藩に移封されると、丹波国亀山藩3代藩主を務めていた藤井松平家伊賀守流初代、松平忠晴の三男松平忠周が、5万8,000石で上田藩へ移封されます。幼少時からたいそう聡明であったそうです。忠周は、上田藩の4代目藩主となると農民に明細帳提出させ、年貢を籾納から米納への切り替えを求ます。加えて、複数の村の庄屋を監督する村役人や大庄屋を設置するなど農村統制を強めました。松平忠周は上田藩の藩主を務めながら、5代将軍である綱吉に仕え、側用人にまで出世します。6代将軍家宣の代になるといったんは罷免されますが、8代将軍である吉宗がふたたび彼を重用し、京都所司代を経て老中にまで出世しました。その一方で、上田藩の政は国元の家臣たちに任されます。松平忠周は68歳で死去しますが、藩主になってから大部分の期間を江戸で過ごしました。

忠周の跡を継いだのは三男の松平忠愛です。しかし、父に似ずに暗君であったと伝わっています。藩主を継ぐ際に弟の忠容に川中島5000石を分地したため、上田藩は5万3,000石となります。忠愛が藩主であった間、享保15年(1730年)に上田城大火により藩主居館が全焼したり、寛保2年(1742年)には水害を被ったりするなど、災害が相次ぎました。財政的に行き詰った上田藩は、幕府より5,000石を借り受けて財政の立て直しを図りました。しかし、忠愛が行った政策は、元文5年(1740年)に検見法から定免法に税制を改正して重税を取り立てたのみで、本人は遊興にふけり藩政を顧みることがなかったと伝えられています。そのため、寛延2年(1749年)には半ば無理やり隠居させられました。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。
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