伊勢亀山藩(2/2)多くの大名家が治める
石川家の家紋「丸に笹竜胆」
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石川総慶が隠居するとその跡を息子の石川総英が継ぎますが、彼は20代前半で早世してしまいます。その後を息子の石川総純が継ぎましたが、だったため、叔父の石川総尭が継ぎました。しかし、石川総尭も早世してしまったため、石川総純が18歳で家督を継ぎます。このころ、伊勢亀山藩では財政再建の名目で「守山御用金」・「甲州御用金」・「桑年貢」・「茶年貢」など徴税を強化したり、検地をし直して今まで荒地として記録していた土地を「田」として課税の対象にしたりしました。そのため、83の村から5千人以上の農民が集結し、一揆をおこします。その結果、藩主である石川総純側が一揆側の要求を呑む形で大庄屋・庄屋、郡奉行・代官を罷免しました。そのようなことがストレスになったのでしょうか、石川総純は19歳で早世してしまいます。
その後も 亀山藩ではたびたび災害や凶作がおこります。
石川総純の後を継いだ石川総博のときには、鈴鹿川水系の安楽川と椋川の大洪水、石川総紀の代には、大暴風雨による凶作(天保の大飢饉)などです。石川家の藩主たちはそれに果敢に立ち向かいます。特に石川総博から4代後の8代藩主石川総紀は、蓄えていた蔵米4千石を領民に与え、さらに3千石を米商人に貸し付けて安価で販売させ、米の高騰を防ぎました。その功績を幕府は高く評価し、石川総紀を老中に推薦する旨があったと記録に残っています。しかし、石川総紀は老中の座に就けば藩政に十分専念できなくなると新形の説得を受け、この申し出を断りました。
石川総純の後、石川家からさらに3代の男子が藩主の座につきます。しかし、石川総禄は34歳、その息子の石川総脩は14歳、その跡を継いだ石川成之は24歳という若さでこの世を去ってしまいました。そのため、石川総純が隠居しながら藩の実権を握り続けました。石川総純は、勤皇派と保守派で藩内が割れる中保守派の家老に藩政を任せ、勤皇派を退けます。そのため、石川総純の後を継いだ石川総禄は、江戸に降嫁した皇女和宮やフランス公使館の警護を務めるなど、幕府に重用されました。
明治維新前後の伊勢亀山藩
慶応4年(1868年)に戊辰戦争が勃発すると16代目伊勢亀山藩藩主の石川成之は、当初旧幕府軍側につきますが、その後官軍側に寝返ります。しかし、新政府が樹立した後、旧幕府に協力した罪を問われて鳥羽などへの出征を強要されました。その後、石川成之は明治2年(1869年)の版籍奉還で藩主から亀山藩知事となりますが、廃藩置県によって藩知事の座を罷免されます。その後、石川成之は24歳で死去、石川総純だけが明治19年(1886年)まで生存し、東京で死去しました。廃藩置県の後、伊勢亀山城の建物も1つ1つ壊され、現在も残っているのは多門櫓のみです。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。