津藩(2/2)富田氏と藤堂氏による藩政

津藩

藤堂家の家紋「蔦」

記事カテゴリ
藩史
藩名
津藩(1595年〜1871年)
所属
三重県
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津城

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藤堂高悠の後を継いで9代目の藩主についたのは、兄に当たる藤堂 高嶷です。そのころになると津藩の財政はどうにもならないほどに悪化していました。そこで、高嶷は財政再建を主とした藩政改革を行います。借金の棒引きを主軸とした金融政策・殖産興業政策・土地制度改革などを次々に実施していきますが、思うような結果は出ませんでした。特に、藩が農民に均等に土地を分け与えようとした均田制は地主達の強い反発を招き、寛政8年(1796年)には3万人規模の領民一揆(安濃津地割騒動)が発生して失敗に終わっています。金融政策も借金棒引きのやり方が強引であったり、寺社修復のために藩の人々が積み立てていたお金を財政立て直しのために使おうとしたりしたため、さらなる反発を招き、改革は失敗に終わりました。

財政の立て直しにようやく成功する

文化3年(1806年)9代目藩主の藤堂高嶷と後継ぎである高巽が相次いで死去します。後を継いで10代目藩主の座に就いたのは、息子の藤堂高兌です。やはり支藩である久居藩からの転任藩主です。藤堂高兌も9代目藩主に習って、金融政策・殖産興業・土地制度改革を主軸とした藩政改革に着手しました。藤堂高嶷の失敗を反面教師にしたのか、藤堂高兌はみずから率先して木綿の着物を纏い、生活費を切り詰めます。その結果10年後には1000両以上の貯金を築きあげたということです。藩主自ら倹約に励めば、臣下も従わざるをえません。また、倹約と同時に高兌は法令の整備や行政機構の改善、藩校・有造館の創設を行いました。これが功を奏し、ようやく津藩の財政は改善されたのです。さらに、藤堂高兌は勧農方という制度をつくり、高兌が信任した者に領地を巡らせて農業指導をしたり農民の訴えを聞いたりさせました。この新制度と灌漑用水工事の成功により、農民の暮らしは改善され、領民は藤堂高兌を大いに慕ったということです。藤堂高兌は病により44才でなくなりましたが、多くの領民が病気平癒を祈願して神仏に願掛けをしたという話しが伝わっています。

そして幕末へ

藤堂高兌の死後、後を継いで11代目藩主となったのは息子の藤堂高猷です。彼が藩主になった頃、世の中には大きな変化が訪れていました。外国船が盛んに日本の沿岸に姿を見せるようになったのです。天保13年(1842年)、藤堂高猷は幕府の命令によって伊勢神宮警備を務め、砲台を築きます。その後、文久3年(1863年)には天誅組の変を鎮圧し、元治元年(1864年)は京都守護のために兵を送りました。藤堂高猷は、佐幕派で公武合体を推進していたと記録にありますが、幕政にはあまり関わっておらず、鳥羽・伏見の戦いでは最初旧幕府軍の陣営に加わっていました。しかし、戦いの最中に新政府軍に寝返り、旧幕府軍が敗北するきっかけを作ったといわれています。戊辰戦争・箱館戦争にも藩士を兵士として前線に送りました。明治になり、藤堂高猷は藩主の座を降り藩知事になります。

廃藩置県

明治4年(1871年)藤堂 高猷が病気を理由に藩知事の座を降りると、その息子藤堂高潔が藩知事を継ぎました。彼が12代目津藩藩主であり、最後の藩主になります。同年、廃藩置県が実施され、藤堂高潔は免官となります。彼は父より早く明治22年(1889年)に55才で死去しています。

津藩に関するまとめ
津藩は、藤堂高虎を始祖とする藤堂家が幕末まで12代にわたって藩主を務めました。特に横暴な藩主や奢侈に溺れる藩主が出たわけではありませんが、幕府の関心を買うために普請を買って出たり天災に度々見舞われたりして、藩の財政は決して楽ではありませんでした。何度か一揆も起こりましたが、10代目の藤堂高兌の代で要約立てなおしができました。
廃藩置県後も藤堂家は残り続け、現在では15代目となる藤堂高正氏が存命です。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。
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