久留里藩新井白石を輩出
土屋家の家紋「三つ石」
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久留里藩は、千葉県君津市久留里一帯を治めていた藩です。徳川四天王の1人榊原康政の嫡男である大須賀忠政が開藩し、幕末まで大須賀(松平家)・土屋家・黒田家の3つの家が治めました。6代、7代将軍に仕えて「正徳の治」を行った新井白石の生家があった藩としても知られています。そんな久留里藩の歴史を紐解いていきましょう。
大須賀(松平)家・土屋家時代
久留里藩は、大須賀忠政が開藩しましたが彼自身は慶長6年(1601年)に横須賀に移封されています。久留里藩の藩主であった時代は10年程度ですが、その間に城下町の整備を行い、久留里藩の基礎を築きます。
その後、久留里藩の藩主に収まったのは土屋忠直です。彼は、武田氏の家臣である土屋昌恒の子息です。土屋昌恒は天目山の戦いで、織田・徳川連合軍に破れた武田勝頼に殉じて亡くなり、土屋忠直は一時期母に連れられて駿河まで逃げますが、やがて徳川家康に見いだされ二代目将軍、徳川秀忠の小姓になります。なかなかドラマチックな半生ですが、久留里藩藩主となって10年後に31才の若さで亡くなりました。
跡を継いだ土屋利直は、徳川秀忠の近習も務めた幕府からも信頼が篤かった大名です。
この利直に目付として使えていたのが正徳の治の中心人物であった新井白石の父、新井利直です。土屋利直は幼少の新井白石を「火の子」と呼んで、その聡明さを愛でたという話しが伝わっています。
土屋利直が69才で没すると長男の土屋直樹が跡を継ぎますが、44才のときに「狂気」を理由に改易されてしまいます。その際、久留里城も破却されたことから厳しい処分であったことがわかります。本来ならお家取り潰しのところ、甲斐武田氏以来の名門な家柄であったことが考慮され、かろうじて3000石の旗本として存続が許されます。
新井白石の父、新井利直は土屋直樹を「仕えるに値しない君主」として一度も城に出仕せず、将来の奉公が禁ぜられる「奉公構」という罰則を与えられました。そのため、新井白石は困窮の中で育ちます。
成長した新井白石は大老・堀田正俊に仕えますが、堀田正俊は若年寄の稲葉正休に刺し殺されるという悲惨な最期を遂げ、白石は浪人となりました。しかし、その後白石は朱子学者の木下順庵に見いだされ、彼の弟子として甲府徳川家に仕えます。この甲府徳川家から6代目将軍徳川家宣が立ったため、新井白石も幕府の重鎮となりました。
新井白石は5代将軍徳川綱吉が発布した「生類憐れみの令」を廃止し、通貨吹替えをはじめとする改革を実行します。しかし、徐々に他の幕臣達との溝が深まり、8代将軍徳川吉宗の時代になると失脚、改訂した朝鮮通信使の応接や武家諸法度はことごとくくつがえされました。
新井白石はその後著作活動に励み、68才で没します。現在も久留里城には新井白石の銅像が建っており、久留里藩との繋がりを今に伝えています。
黒田家の時代
土屋家が改易になった後、久留里藩は63年間幕府の直轄地となり、藩主がいませんでした。
その後、黒田直純が久留里藩を再興するために上野沼田藩から移封されます。その後、黒田家が9代にわたり明治維新まで黒田家が久留里藩を治めました。
黒田家が久留里藩を治め始めたころから藩の財政は悪化し続け、3代目藩主黒田直温のあたりから藩の財政再建に取り組みますが、目立った成果は得られませんでした。
黒田家の財政が悪化した原因の一つが「大阪城の加番(大坂加番)」です。これは大阪城の警備のことで、一年交替で大阪城の警備を務めました。小大名の役職の一つで、一万石の役料が与えられますが、大坂までの移動費用などは自費で賄わなければなりません。
久留米藩の藩主は大坂加番の役目を担うことが多かったため、その度に多額の出費に苦しみました。
黒田家は特に目立った功績もなく明治を迎えましたが、明治末期に家老の一族である森勝蔵に命じて、藩史『久留里藩制一班』『雨城廼一滴』を編纂しています。この2冊の書物は譜代大名が治めた小藩の内政が詳しく記されており、貴重な郷土資料となっています。
久留里藩まとめ
久留里藩は江戸にも近い小藩であったため、一度は幕府の直轄地になりましたが最終的に譜代大名の黒田家が幕末まで治めました。
新井白石を輩出した以外目立ったできごとはありませんが、明治末期に編まれた『久留里藩制一班』と『雨城廼一滴』は、小藩の内情をうかがえる貴重な資料となっています。
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- 執筆者 AYAME(ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。