郡山藩柳沢吉保の子孫たちが治める

郡山藩

水野家の家紋「沢瀉」

記事カテゴリ
藩史
藩名
郡山藩(1615年〜1871年)
所属
奈良県
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郡山城

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郡山藩は、奈良県郡山市にあり郡山城を藩庁とした藩です。郡山城は豊臣政権時代に豊臣秀吉の異父弟、羽柴(豊臣)秀長によって治められ、一時期は100万石の城下町として栄えました。その後、大阪の陣では主戦場の一つとなり、郡山城も城下町も大きな被害が出ています。そんな郡山藩の歴史を紐解いていきましょう。

郡山藩成立以前

郡山の地は寺社の勢力が強く戦国時代の末期までは、寺社勢力と小規模な豪族が小競り合いをくり返しているような状況でした。その中で筒井順慶を輩出した筒井氏が力を付け、大和国へ進入してきた松永秀久とぶつかります。松永秀久は一時期筒井氏の居城であった筒井城を落とし、大和を手中に収めました。しかし、松永秀久は大和進出の後押しをしてくれた織田信長に謀反を起こし、自滅に近い形で亡びます。その後、郡山の地は一度筒井氏の手に戻った後で豊臣秀吉の異父弟羽柴秀長に与えられました。

羽柴秀長は、筒井順慶が築城した郡山城を100万石の大大名にふさわしく大幅に増築し、城下町の整備にも尽力します。しかし、羽柴秀長は志半ばで病死、養子の豊臣秀保も17歳で急死してしまったため、郡山の地は五奉行の1人増田長盛に与えられました。

増田長盛は関ヶ原の戦いで西軍に味方したため、領地を取り上げられます。再び領主不在となった郡山は筒井氏の出である筒井定慶と弟、慶之に預けられます。慶長20年(1615年)、大坂夏の陣が起こると豊臣軍と徳川軍は郡山の地で一度ぶつかりました。この際、筒井定慶と慶之は早々に郡山城を捨てて落ちのびます。その後、豊臣軍が早々に滅亡したことにより、定慶と慶之は敗走を恥じて自害したと伝えられています。

郡山藩成立から幕末まで

大阪夏の陣の後、水野勝成が藩主となって郡山藩が成立します。しかし短期間で移封になった後、松平忠明が代わりに移封されて藩主の座に就きました。彼もまた藩主になって20年後に移封されてしまいます。

その後、本多忠勝の孫にあたる本多政勝が、藩主の座につきました。本来、郡山藩主には彼の従兄弟である本多政朝の子どもが就く予定でしたが、まだ幼少だったので正勝が政朝の子どもが成人するまでという条件づきで城主になったのです。しかし、政勝はその約束を反故にして、自分の実子である政利に譲ろうとします。そこで、正勝は4代将軍徳川家綱の大老であった酒井忠清に取り入って家督をスムーズに実子政利に譲らせようとしました。

この企みは結局うまくいかず、郡山藩は所領15万石のうち9万石を政朝の嫡子政長、残り6万石を政利に継ぐように幕府に命じられました。これを不服とした政利は政長を毒殺して領地を独占しようとします。しかし、この陰謀も酒井忠清失脚によってうまくいかず天和2年(1682年)、本多政利は本多政長を毒殺した罪で領地を没収されてしまいました。

騒動の末家が断絶となった本多家に変わり、郡山藩を任されたのは松平信之です。彼は藩主の座に就いていたときに起こった火事の後始末をして城下町を再建するなど有能な政治手腕を発揮しましたが、藩主になって数年後に老中に任命されて郡山の地を離れます。

その後は再び本多忠勝の血筋である本多忠平が藩主になり、本多家の治世が始まります。本多忠平の代からすでに郡山藩の財政は悪化していました。本多忠平は税制改革を試みましたが失敗に終わり、後継ぎを残さないまま亡くなります。後を弟の本多忠常が次、5代まで続きましたが4代目本多忠村が13歳、5代目本多忠烈が5歳で亡くなったため、家が途絶えました。なお、本多家が藩を治めている間、財政は悪化の一途を辿っています。

本多家が途絶えた後、5代将軍徳川綱吉の側用人を務めた柳沢吉保の長男、柳沢吉里が移封されます。彼を祖とする柳沢家が幕末まで郡山藩を治めました。柳沢吉里は学者肌の藩主で、名君として慕われていたと記録に残っています。

彼の跡を継いだ柳沢信鴻は目立った功績こそ残しませんでしたが、隠居後に江戸で記した日記が当時の政治社会状況を知る貴重な資料となっています。日記には天気も克明に記されていたため、天明の飢饉の原因となった天候不順の究研究にも役だちました。その後、6代目藩主柳沢保申のときに明治維新を迎えるまで、郡山藩は打ち壊しなどささいな騒動はあったものの特筆する事件もありませんでした。

なお、最後の藩主柳沢保申は、廃藩置県後に産業の発展に力を入れて明治20年(1887年)には魚類の研究所を私費で作り、金魚の研究に着手しました。これがきっかけとなり、現在の郡山市は金魚の産地として有名となっています。このほか、柳沢保申は教育振興にも熱心で奈良県立郡山高等学校に多額の寄付も行っています。

郡山藩まとめ

郡山藩は多少のお家騒動や飢饉にあったものの、財政が破綻しそうなほどの経済的な危機もなく幕末を迎えました。現在も柳沢家は存続しており、現当主の柳沢保徳氏は奈良教育大学や帝塚山学園の学長も務めた教育者です。

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AYAME
執筆者 (ライター) 江戸時代を中心とした歴史大好きライターです。 趣味は史跡と寺社仏閣巡り、そして歴史小説の読書。 気になった場所があればどこにでも飛んでいきます。 最近は刀剣乱舞のヒットのおかげで刀剣の展示会が増えたことを密かに喜んでいます。
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